美術の方法論を内容とする美術科教育とその一環としての鑑賞教育
金子 一夫(茨城大学)
Art Appreciation Education as a Part of Art Education of Which Contents are Metods of Art
Kazuo KANEKO
The author introduces new concept of art education of which contents are methods of art, against the present situation, namely education reform movement, child-centered art education with no awareness on contents and expansion of art style etc. This paper argues that art appreciation education, as a part of art education which make children understand art methodology. Minimum units of materials for art appreciation education are not art works but methods of art. System of methods of art consisted with three parts, examples of metodological qualities of art in several cultures, curriculum of art education are argued in relation to art appreciation education. Finaly the author shows a packaged materials for systematic learning methodology of art.
1.緒言
筆者は美術科教育の教育内容を「美術の方法論」、教育目的を「美術の方法論の理解と実践」とすることによって、美術科教育に明確な構造的規定を与えたいと考えている。拙著及び個別的問題を論じたいくつかの拙論の中でも、美術の方法論を教育内容とする構想を説明した(註1)。
美術科教育の一環である美術鑑賞教育についても、「美術の方法論の理解を目的とした鑑賞教育」と題した一連の論文を発表しつつある(註2)。そこでは従来の鑑賞教育論が曖昧な感動主義、及びその発展形としての「作家の気持ち」追体験主義であることを指摘し、それらが学校教育の授業形式に合った明確な教育方法を見いだせないことを批判した。そして鑑賞教育の目的として「美術の方法論の発見・理解」、鑑賞教育の方法として「発問・指示によって作品から美術の方法論を発見、理解させること」、そして指導過程として以下のような図式を提案した。
Ua指示(内容的・形式的側面の記述と発見)
T作品の提示→Ub指示(記述以外の作業、比較・模写・探索等)→V発表(と討議)→Wまとめ
Uc発問(特定の課題に関する思考作業)
さらに、目標とする美術の方法論に応じてUの部分の様々な具体的方法を提案した。この指導過程の目的は作品から特定の美術の方法論を発見・理解させることである。それは必ずしも特定の作品の本質に迫らせたり、各自の作品評価に至らせることを意味しない。つまり、美術批評系の多くの鑑賞教育論が主張しているような、ある作品の様々な面について児童・生徒の考察作業を積み重ねさせ、最終的にその作品に対して児童・生徒各自の評価に至らせる鑑賞教育方法に筆者は賛成しない。特定作品の本質の理解や評価は、筆者の考える美術の方法論の理解を目的とする鑑賞教育では捨象される。筆者の考える鑑賞教育は美術の方法論体系を教育内容とする美術教育の一環である。無規定媒体は教育内容との関係が設定されて教材となる。実際の教材作成過程で作品がまず選択決定され、次にそこに発見されるべき美術の方法論が決定されたとしても、筆者の考える鑑賞教育では論理的に作品より前に美術の方法論体系がある。
もちろん、特定作品の本質理解と各自評価を目的とする鑑賞教育も、最終的には美術一般の本質理解と各自評価の方法の獲得が目的であり、その作品は偶々選ばれただけなのかもしれない。そうであれば鑑賞教育方法論上の問題として、次のようなことが言える。私見では作品評価に至るまでの継続的かつ繁雑な作業は、授業のリズムを曖昧にする。それを避けようとして内容を細分化して授業すれば、一つ一つは筆者の言う方法と近くなる。しかし、その作品の本質理解と評価という最終目標が曖昧になる。結局は、その作品の漠然とした印象に基づく肯定的評価が児童生徒にもたらされるのではないかと懸念するのである。それゆえ、鑑賞教育方法の最低構成要素の基準は鑑賞対象作品ではなく、目標となる一つの美術方法論にすべきだと思うのである。少なくとも小中学校段階では教師が目標となる美術の方法論とそれにふさわしい作品を準備し、発問や作業によって子どもにその美術の方法論を発見・理解させた方が授業方法としてもずっと明快で容易である。それが基本にあれば授業方式も無限に案出できる。
まず拙論を踏まえて、作品ではなく美術の方法論を鑑賞教育方法の最低構成要素の基準にすべきことを述べた。本稿は次に美術の方法論を教育内容にすべき理由として現今の教育改革方向に対する疑問と美術の現状を述べる。そして美術の方法論の体系構想、文化的特性、美術科教育課程、鑑賞教材パッケージへと論じていく。
2.美術の方法論を教育内容とする理由
(1)現在の教育改革についての疑問
昭和二十年代の経験主義・児童中心的問題解決学習は、教育目標・内容・方法に曖昧さをもたらし「学力低下」という結果とともに破綻した。その反省と戦後日本の経済復興のために昭和三十年代、四十年代は教科内容の構造化、現代化という教育内容を明確にする方向へ転換した。しかし、昭和五十年代から「ゆとり」「新しい学力観」といったキャッチフレーズの下に、教育内容の削減とともに再び児童中心的問題解決学習への政策転換が実行された。さらに今次の教育改革はそれを徹底するものである。昭和二十年代と違い、高度に発達した社会での教育目的・内容・方法の縮減・曖昧化は、どのような結果をもたらすのか推察してみたい。
高度に発達した現代日本社会が必要とする教養水準が低くなることはない。しかし、教育改革による教育目的・内容・方法の縮減・曖昧化は、公立学校が保証する学力の最低水準の引き下げであり、学力は低下するであろう。学力と言うと試験での得点能力だけを想定しがちであるが、教養の基礎でもある。その学力低下と現代社会が必要とする教養水準の差は、とても大学教育の改革等では解消できないであろう。「少年老いやすく、学なり難し」である。そのために保証低水準以上の学力は、子供の顕在能力と親の経済力による実現が奨励されるであろう。高度の教育は塾、私立学校、独学等のそれへ委託転換されていく。「生きる力」は「自己責任」能力とされ、国民を階層化する自己責任社会が到来する。それは自由な社会であり、私立教育機関や自習書等の様々な民間教育活力も発生させるのでよいことかもしれない。ただ、公立学校が保証する学力水準の引き下げで一番困るのは、学ぶ意欲をもった大衆である(註3)。
教育改革の推進者・支持者の多くは学校教育の過剰が児童生徒を抑圧し、様々な学校問題の根源であるとする。しかし、塾の隆盛は教育の過剰に他ならないのに、そこで問題はほとんど起こらない。やはり学校教育の問題は、時代に合っていない浪漫的教育内容と教育方法、換言すれば無内容、無方法への傾斜にあると思われる。より根本的な原因は、昭和五十年代の経済的目標達成による国家目標の喪失、そして平成三年に冷戦構造という戦後の根本的前提が崩壊した現実を見ないことである。豊かな社会になるにつれて国民の競争意識、個人における理想(手本)、理性的連帯感の崩壊は徐々に進行していた。そして前述の国家目標と喪失と枠組みの崩壊によって一挙に加速した。このように親も子どもも個人の理想と理性的連帯感を崩壊させつつあるところで、子どもに対し浪漫的な児童中心的問題解決学習を推進したら崩壊に拍車をかけてしまう。それは抽象的な自己全能感と情緒規範的な共同体意識を育て、個人を恣意的な非現実・主観絶対主義へ導き、事態をますます悪化させる。このような時期にこそ、拠るべき歴史や諸価値といった教育内容と教育方法(システム)を再構築すべきである。そして子どもには個人を超えた確実な価値や規範、そして現実に気づかせ、合理主義的・現実主義的思考とを形成すべきである。例えば主観や感情だけでは達成できない高い価値があること、理解し難い他人がいることなどを教え、理性的・方法的に対応する必要に気づかせるべきである。美術科教育においては、方法論無しの思っただけでは到達できない美術の高さ、奥深さがあることに気づかせるべきである。このようにして普通教育は現実的・合理的・常識的判断のできる人間の意図的形成をすべきである。
しかしながら、多くの通俗的教育論は児童尊重という善意・熱意の表明、すなわち倫理論に明け暮れ、冷静な方法論・システム論的考察をしない。しかし、善意・熱意が根本であるとすれば、教育がうまくいかないのは「善意・熱意の不足のため」となり、自分の熱意・善意が疑いなければ「社会・家庭が悪い」、さらには「子どもが悪い」とする善意・熱意の逆説に至るであろう。方法が悪いという可能性を思い浮かべた方がずっと健康的であるのに。
美術教育界も、教育改革の追い風を受けて主観的な善意・熱意主義の言説が突出している地帯の一つと言えよう。それらの言説を推進しているのは、近代の制度である美術と美術科教育を極限まで解体しないと満足しないアナーキーな衝動であるように見える(註4)。そのような言説に導かれる美術科教育には、本当の混乱と解体しか待っていない。
(2)美術の現状認識 表現と鑑賞における様式・形式・手段の拡散
筆者は美術科教育に関連して美術の様式・形式・手段が極度に拡散した状況を見る(註5)。
@対立する表現様式があったにせよ、かつて美術にはその時代の主要な表現様式があった。しかし、徐々に主要な表現様式は影をひそめ、今日は対立も成立しないほど様々な様式が並立するようになった。いわゆる統一的様式の喪失と拡散の状態である。美術科教育は特定の、あるいはすべての表現様式を基礎にすべきか、さらにあるいはすべてを無視すべきなのであろうか。
Aまた一方で、現代は純粋美術以外の様々な表現形式が隆盛している。漫画、イラストレーション、絵本、CG、その他様々なキッチュの大衆に与える力は、純粋美術の影響力をはるかに凌いでいる。美術科教育は、これらの表現形式にどう対処すればよいのであろうか。
Bさらに現代における情報・交通手段(映像、印刷、海外旅行等)の拡大・高度化は美術に対する我々の関わり方を大きく変えてしまった。人は望みさえすれば、今ここにある表現だけではなく、あらゆる時代・地域の表現を見ることができるようになった。敦煌の壁画でさえパッケージ・ツアーで見ることができる。実物が見られない作品でも、ほとんどが複製、映像で見ることができる。このように拡大した情報・交通手段によって提供される、あらゆる時代・地域の美術に対して美術科教育はどのように対処すればよいのであろうか。
3.美術科教育の課題と美術の方法論
前述の教育と美術の混迷・拡散状況を見れば美術科教育の最重要課題は、拡散してしまった美術表現の様式・形式・手段にいかに論理性を持たせて教育内容・方法(システム)として再編するかである。美術科教育を解体したいアナーキーな衝動に対抗できるのも、美術科教育の方法論・システム論的な再構築である。その構築論理は教育の論理と美術の論理の二つを満足させるものでなければならない。そこで教育内容としての「美術の方法論」体系という概念が浮上する。これによって美術科教育内容と教育方法が整備できれば、美術科は国語科と同じような位置を要求することができるはずである。国語科が言語の方法論の教科であれば、美術科は美術(視覚表現)の方法論の教科であると。
筆者は美術・美術の方法論・美術作品の定義と美術科教育の諸概念を以下のように設定したい。冷静に考えれば、美術科教育が単に「美術の方法論の教育」という主張では多くの美術教育論と変わりない。問題は美術の方法論体系(の構造と内実)、その作用をどう設定するかである。それは論者によって違い、そこから派生する美術科教育の目標・方法も違ってくる。
美術の定義 :感情をも組織化する視覚的イメージの構成創出 美術の方法論の定義:美術独自のイメージ創出の方法(現実認識とは違う) 美術作品の定義 :美術独自のイメージを現出させる様々な方法論の結集体(現出装置) 美術科教育の目的 :美術の方法論の理解及び実践 美術科教育の内容 :美術の方法論 美術科教育の教材 :美術の方法論を理解させるために採用・変形された美術の諸活動、 あるいは鑑賞対象としての作品 美術科教育の方法 :上記教材を生かす活動 美術科教育の人間像:芸術知(美術知)的人間 感動、自己表現 :美術に含まれてしまうので指導上の必要条件(次節参照) |
美術の方法論の体系を整備しない限り、美術科教育の様々な派生的な目標も明確な方法論を導き出し得ない。最近よく言われる「美術による異文化理解」という目標も、各文化における美術の方法論的特性の違いが明確に言語化されない限り達成できないであろう。例えば中国美術の「完全主義」「写実性」と日本美術の「未完成主義」「情趣性」といった方法論的特性の違いが教師に意識されていず、何となく違うというだけで構想される指導は恣意的印象をさまようだけである。児童・生徒たちの感じるままにさせるだけの指導は、教育として無責任である。
また、従来の感動主義的鑑賞教育の授業は明確な目標と方法とをもたなかったために、作品に接近することができず、児童・生徒が感動することもあまりなかったのではないかと推測する。逆説的ではあるが、美術の方法論の理解を目的にした鑑賞教育方法の方がずっと児童・生徒は作品を理解し感動もする。もちろん、感動にとどまってしまうのは筆者の意図するところではない。
表現指導においても美術の方法論を軸にしなければ、何が指導の目標なのか明確にならない。教師は何かは言わざるを得ないから、美術の方法論を恣意的に密輸して一貫性を欠く指示や助言をすることになってしまうであろう。
4.美術の方法論の体系(試案)
前節で示した美術の定義「感情をも組織化する視覚的イメージの構成創出」から当然であるが、筆者の言う美術の方法論は視覚的イメージの方法論である。筆者の考えでは美はイメージ(仮象)としての対象把握であり、美的能力とはイメージ能力に他ならない。現代美術の高度の観念性をどうとらえるかはともかく、人間のイメージ欲求は強力なものがあり、美術の人類史と個人史(例えば児童画の発達過程)は、イメージの創出の歴史である。抽象美術でもイメージの創出である。それゆえ、少なくとも美術教育に関わる美術及び美術の方法論をイメージ概念抜きで考えない方がよいと思うのである。
筆者は美術の方法論に表現の内容的側面と形式的側面という場を設定した。その参考になったのが、吉本隆明の言語芸術論である(註6)。吉本は言語の本質を、指示表出と自己表出の二重性と捉えた。これは、例えば品詞によって両者へのアクセントがかかり具合が違うと言うとわかりやすいであろう。感動詞は自己表出性だけで指示表出がほとんどない。名詞は最も指示表出性が強く自己表出性が弱い。その間に助詞、助動詞、副詞、形容詞、動詞、代名詞が位置する。そして「言語の意味」とは意識の指示表出から見られた言語の全体の関係、「言語の価値」とは意識の自己表出から見られた言語全体と関係と定義される。そして言語が喚び起こす「像」とは自己表出と指示表出との交錯する縫い目に出現する。弱い指示表出と強い自己表出、あるいは強い指示表出と弱い自己表出の組み合わせが、強い像をつくる。吉本は考察をさらに進めて体系的な言語表現の学をつくっているのであるが、祖述はここまでにする。
筆者は視覚的表現である美術も指示表出と自己表出の二重性として捉えられると考えた。一つの単語が自己表出と指示表出を含むように、描かれた一本の線も自己表出と指示表出を含んでしまう。それを組み合わせた一枚のデッサンは、対象を指示していると同時に自己の表出もしている。像としての強さも、前述の言語表現における組み合わせの場合と似ている。
表 美術の方法論の三側面と種類(試案)
三つの側面 | 方法論の種類の一部 | 具体的な方法論の一部 |
内容(指示表出)的 側面における方法論 |
題材の選択 | 関心、または一般的題材体系からの選択 |
主題の設定 | 対象の自己表出性を強化する言語化 | |
イメージ・レトリック | 直喩、隠喩、喚喩、提喩、二重像 | |
指示表出性の強化 | 超現実主義的表現 | |
形式(自己表出)的 側面における方法論 |
イメージ生成手法 | 区画、過剰化、構成変更、脱機能、 |
想像的視点 | 透視図法とその変形、距離感、視角 | |
造形要素の構成 | 線、形態、色彩、構図、視線経路 | |
自己表出性の強化 | 抽象的表現 | |
形成過程的側面に おける方法論 |
素材 | 様々な素材、素材の体系 |
技法 | 様々な技法 | |
物質性の強化 | オブジェ的表現 |
平面、立体、空間、映像といった形式も美術の方法論と言える。ただ、本稿ではとりあえず作品に内在するイメージ創出の方法を取り上げる。それは指示表出的側面における方法論と自己表出的側面における方法論とに便宜的に分けることができる。前者には題材、主題、イメージ・レトリック(喩)等を、後者には造形要素の構成、構図、筆触、「イメージ生成技法」等を含めた。吉本の下した「言語の意味(価値)とは意識の指示表出(自己表出)から見られた言語の全体の関係だ」(註7)という定義に従えば、前者を美術の「意味」的側面、後者を美術の「価値」的側面と言うべきかもしれない。それでもよいのであるが、「文学(作品)の自己表出の展開(広がり)としてみたときそれを形式といい、言語の自己表出の指示的展開としてみるときそれを内容という」(註8)とする、より芸術(作品)としての言語の二側面を示す「内容」と「形式」という吉本の用語を選んだ。そしてダリの作品のように指示表出性を極端に高めて像を成立させる方法論と、スーラや抽象作品のように自己表出性を極端に高めていく方法論をそれぞれの枠内に含めた。
形式的側面に含めるべきかもしれないが、美術教育の場合、物質的素材や技法には相対的な独自性があると考え、それらを形成過程的側面における方法論として分離した。
これらの三側面は前述のように便宜的な区分であるし、用例によっては別の側面に分類した方がよい場合もある。そして、ある表現・作品に統一性があれば、一つの方法論は分類された側面にだけではなく他の側面とも密接に関わっている。例えば、内容的側面の「題材の選択」は自己表出と関係しているし、「主題の設定」とは対象を自己表出性へ高めて設定することに他ならない。また、ある構図の選択は主題と関係している。ある素材や技法が選択されるのは、造形要素の構成、主題と密接に関係する。そして一つの方法論は他の方法論と統合されて表現としての統一性をもたらす。つまり、一つの表現・作品に様々な方法論は見いだせるが、すべては表現・作品の統一性へ向かっている。
例示した美術の方法論は、まだ方法論群とでも言うべきもので、実際に教育実践するためには下位の「具体的な方法論」から一つを選択し、さらにそれを教材化しなければならない。例えば、イメージ・レトリック(喩)として、直喩、隠喩、喚喩、提喩といった具体的方法論群から隠喩を選択したとする。さらに実際の授業過程を想定しながら隠喩を理解・体験させるため必要な作品・活動を発見・選択・作成・計画しなくてはならない。このような教材化によって初めて美術科教育の実践に臨めることになる。実際には、以上のような美術の方法論を決定し、それを理解させるための教材を作成するという順序だけではなく、教材以前の無規定媒体から美術の方法論を発見するという順序もあり得る。後者がいわゆる「教材解釈」である。
以上のように美術の方法論との関係を確立することにより、従来曖昧であった教材を明確な性格のものにすることもできる。例えば、小学校低学年で石や枝を何かに見立てる教材は、ダリの絵と共通するようなイメージ・レトリック(あるいは生成手法)「二重像(ダブル・イメージ)」を理解実践する教材と解釈できる。そうすれば、教師は子どもにダブル・イメージという言葉は教えなくても、美術の方法論体系の特定部分を原初的な形で指導していると実感できるであろうし、将来のより明確な指導への準備にもなっていると自信も持てるであろう。
もちろん、美術の方法論の体系化とその教育課程作成作業は緒についたばかりである。その作業以前、あるいは同時に美術作品や美術活動から美術の方法論を抽出する作業も必要である。
5.諸文化における美術の方法論的特性
先に美術による異文化理解を述べたときに触れたが、各文化における美術の方法論的特性は違う。特に日本の安土桃山時代の千利休に代表される淡泊・未完成・歪みの美は日本独特のものと思われる。これは日本が学んだ中国・朝鮮半島や西洋の完全性の美術にはないものである。とりあえず西洋的な整合性と日本的な非整合性という対比を考えてみる。
現実の作品から方法論の抽出作業をしていると、西洋の作品と日本の作品とでは方法論というか作品の性格がかなり違うのがわかる。すなわち西洋の作品は作品中に整合的・合理的な方法論が機能している。そのため言語で説明しやすい。それに対して日本の作品は、なかなか言語で説明しにくい。もちろん、実際には例外もたくさんあろう。これはとりあえず西洋と日本の美術における一般的特性の差をこのように設定してはどうであろうかという仮説の提案である。筆者が大学で実践している「透視図法に関する鑑賞教材」ミニ・パッケージを使って説明する。
@マソリーノ「ヘロデの宴(サロメ)」15世紀前半 作者は透視図法を使えることがうれしかったのであろう。絵の意図(内容の伝達)と関係 ない機械的導入のため、そこばかりが目立って絵の意図を阻害しかねない。 Aマンテーニャ「死せるキリスト」 15世紀後半 マンテーニャになると透視図法の機械的適用ではなく、絵の意図に合わせてアレンジする ようになった。この絵はキリストの顔が大きく、下半身が縮んでいる不自然な描き方をし ている。その理由は透視図法をそのまま適応すると顔が小さくなってしまい、顔を見たい という鑑賞者の欲求に反する。もし現実のキリストを足の方から見たら、全体を冷静に見 るのではなく実際はこのように部分を舐めるように見るのではないかとも思われる。キリ ストの表現という意図から様々な処理が説明できる。あまり例のない足の方から見たキリ ストを描いたのは、足の聖痕を見せるためである。手首を不自然に曲げて手の甲を見せて いるのも、おなじ理由からである。このように不自然さも明確に説明可能である。 B葛飾北斎「五百羅漢寺さざえどう」 19世紀前半 葛飾北斎は、西洋の透視図法も研究していたことは確かであるが、その適用は機械的では ない。この作品は一見、富士山に消失点があるかのような印象がある。しかし、建築部材 の方向から消失点を割り出して見ると、沢山の消失点が画面にあることがわかる。一点透 視図法で描かれた当時の浮世絵作品と比べると、絵に現れた感覚が全然違う。 |
作品例の選択が妥当かの議論はあろう。筆者の鑑賞教材から選んだためにこのような選択になったと了解されたい。これらの差は作品の中にある時間の違い、瞬間と流れる時間との違いと思われる。一般論的に考えれば、整合的から非整合的へという方向が教育順序としては適当であろう。つまり、 西洋的な整合的方法論(瞬間)→日本的な非整合的方法論(持続的時間の導入)である。残念ではあるが、一般的にはこのような順序になるであろう。
異文化理解という派生的目標を立てる場合、三つの側面とは別に、あるいはそれを横断する枠組みとして、例えばこのような西洋的な整合的方法論、日本的な非整合的方法論とが設定されるであろう。学習指導要領が自国文化の理解として日本の作品を鑑賞対象として取り上げると規定しても、日本的特性を原理として設定できなければ恣意的な教育になってしまう。
6.美術科教育の課程
論理的には美術の方法論の一般的体系がまずあり、次に美術科教育課程が構想される。教材作成行為においても論理的には教育内容が教材以前にあって無規定的媒体を教材として成立させるのであるから、教育内容がはっきりしなければそれは教材にならない。しかし、教育内容の論理的な体系はそのまま児童・生徒の発達的特性と必ずしも調和するわけではない。美術科教育課程あるいは美術教材体系は美術の方法論の論理的体系は踏まえながら、児童・生徒の発達的特性や時代状況その他と調和させた別の体系として設定しなければならないであろう。筆者の美術教育課程の構想は全く始まったばかりである。現時点での概略を素描しておく。
以下に述べることは子どもの美術表現行為だけではなく鑑賞行為に関しても妥当すると考えている。美術に関して小学校四年生あたりで大きく意識が変わる。小学校三年生あたりまでは、絵や工作は場面を想像的に体験する、いわば夢想・シミュレーションの手段として意識され、作品制作という意識は希薄である。当然、夢想の手段であるから表現の形式的要素よりも想像内容的要素の方を子どもは意識している。それゆえ、少なくとも小学三年生あたりまでは内容的側面の方法論中心の教育内容にすべきである。しかも子どもにとってはその無意識的実践になるようにすべきであろう。鑑賞指導においても内容的側面の方法論中心にすべきであろう。しかし、教師はその方法論の教育であることを意識していなければならない。ものの見立て教材の例で既に述べたように、その方法論が方法論体系全体中に占める位置や、その方法論学習の将来的発展も想定しておくべきである。従来の子どもの意欲・気持ちだけを基準とする美術教育方法論では、児童への感情移入ばかりが目立ち、このような見通し意識は希薄であった。
小学校四年生から六年生あたりまでは、やはり内容的側面の方法論中心でよい。ただ、徐々に意識的な理解・実践にさせること、そして形式的側面の方法論の理解も交えていく。そして中学校一年生から明確な形式的側面の方法論中心にして行くべきと考えている。
7.美術の方法論の系統的理解のための鑑賞教材のパッケージ
筆者の考えるような鑑賞教育方法が小・中学校で十分に検証される段階には至っていない。それゆえ、とりあえず筆者が大学で行っている美術の方法論の系統的理解のための鑑賞教材パッケージを紹介して本稿を締めくくる。筆者の透視図法に関する鑑賞教材ミニパッケージは本稿第五節で紹介した。どちらもばらばらに開発された鑑賞教材から選択してパッケージしたものである。毎回の講義に一個ずつとか、一挙に数個とか、最終的に何番目までするか等の実施方法は諸事情によって変化するが、実施順序は基本的に変えないで行っている。
それぞれの作品は別の方法論を理解するための教材としても可能性はもっている。例えばベラスケスは、筆触や描写の方法論を理解させるのによい。しかし、美術の方法論の系統的理解という当座の目的からは、このように美術の方法論と作品の対応関係が設定されるのである(註9)。
○美術の方法論の系統的理解のための鑑賞教材パッケージ
順序 | 作者及び題名等 | 設定された目標 |
@ A B C D E F G |
ブロンツィーノ 「愛の寓意」 セザンヌ 「静物」 ピカソ 「泣く女」等人物画数点 スーラ デッサン ダリ ダブルイメージ使用作品 ベラスケス 「ラス・メニーナス」 小山正太郎 「濁醪療渇黄葉村店」 中西利雄 「彫刻と女」修理前・後 |
形式的と内容的という二つの側面に気づく 美術の方法論と現実的認識との違いに気づく 共通する方法論が実践されていることに気づく 指示表出性を希薄にする方法に気づく 指示表出性を過剰にする方法に気づく 作者の生身の視点とは違う想像的視点に気づく 題名とモチーフで物語を表せることに気づく 作品の物質としての側面に気づく |
註
1. 金子一夫『美術科教育の方法論と歴史』(中央公論美術出版、1998年).
同「[生きる力]と美術科教育の方法」『中等教育資料』第715号, 1998年, 22-27頁.
同「『情報社会』における美術教育の理念転換の必要性」日本教育大学協会全国美術部門新 教育課程特別委員会『情報社会における美術教育の可能性』(同部門、1998年)13-18頁.
2. 金子一夫「美術の方法論の理解を目的とする鑑賞教育(1−4)」『茨城大学教育学部紀要(人 文・社会科学、芸術)』第44, 46-48号、1995, 1997-99年。
金子一夫・小泉晋弥・他「美術鑑賞教育の方法論とその実践(1,2)」『茨城大学教育実 践研究』第16、17号、1998、1999年.
3. このような教育改革に対する懸念は、以下のような諸書でも言われている。
苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書、1995年)
藤田英典『教育改革』(岩波新書、1997年)
和田秀樹『学力崩壊』(PHP研究所、1999年)
4. そのような議論の典型的な論文としては以下のようなものがある。
鈴石弘之「子どもは本来ダダイストだ!」『美育文化』第49巻第5号、1999年、14-23頁.
5. 金子一夫『美術科教育の方法論と歴史』(中央公論美術出版、1998年)50頁.
6. 吉本隆明『言語にとって美とは何か』T・U(角川書店、1990年)
7. 吉本、前掲書T、78,89頁.
8. 吉本、前掲書U、233頁.
9. @G以外は、すべて註1に掲げた拙論中に実践例が載っている。