研究部会のページへ戻る

  美術科教育学会 美術教育史研究部会通信 37 2011..20

 編集:有田洋子(島根大学教育学部)e-mail: arita@edu.shimane-u.ac.jp

 発行:美術科教育学会美術教育史研究部 代表 金子一夫 (茨城大学教育学部)

 310-8512 水戸市文京2-1-1 茨城大学教育学部内 e-mail: kaneko@mx.ibaraki.ac.jp(研究室)

 kaneko@kjb.biglobe.ne.jp(自宅) http://www2u.biglobe.ne.jp/~kaneko-k/(自宅)

 

1.美術教育史研究部会:美術教育学の制度的基盤の成立過程」(2011年3月27日,富山大学)

 美術教育史研究部会は,第33回美術科教育学会富山大会に合わせて,大会二日目の平成23年3月27日に富山大学において開催されました。テーマは「美術教育学の制度的基盤の成立過程」です。

 今回の趣旨と部会員報告の項目について,金子一夫代表が記された『美術科教育学会富山大会研究発表概要集』から抜粋します。

○今回の趣旨:戦前の師範学校から戦後の教員養成大学・学部,そして教科教育専攻大学院へと変遷するなかで,美術科教育学研究の制度と人的配置が確立していく。それは美術教育学が成立したことと同義ではないものの,その過程は現在の我々の意識や学会の発生に関係していて,とても興味深い。直接的な関係者が亡くなりつつあることを考え,美術教育史研究の対象として確立しておきたい。

○部会員報告の項目:1.戦前の師範学校から戦後の教員養成大学・学部への移行 2.学科目制度の発足と具体的人員の配置 3.教科教育専攻大学院の設置と展開 4.美術科教育学関連学会の変遷 5.美術科教育学は成立したか。

 上記を軸として,東京学芸大学の場合を平野英史氏,大阪教育大学の場合を花篤實氏,茨城大学と島根大学の場合を有田が発表することとなりました。その概要と部会を終えての感想等を後掲します。

美術()教育()専攻の大学院設置から科学的研究としての美術教育学研究者が養成され始めたと言えるかと思います。最初期に大学院が設置されたのが,東京芸術大学(昭和38年)東京学芸大学(昭和43年)大阪教育大学(昭和50年)です。その次に横浜国立大学(昭和54年)や千葉大学(昭和57年)等が続きます。最初期の美術教育学専攻大学院修了生が,各大学に美術科教育プロパーの教員としてあるいは各大学院設置要員教員として赴任していくわけですが,当然修了生の人数は限られます。全国の大学全てに美術科教育を専門とする教員が配置されるには必然的に時差が生じてしまいます。このあたりも先に記した項目2と関係して一つの山となっているように思います。

部会員の皆様から貴重なお話が伺え充実した部会となりました。今回の部会では金子代表の促しもあり,なんと出席会員全員からご発言がなされました。後掲の中川知子先生の報告からもうかがえますように,よい雰囲気の中,深くて高い識見を背景とした,建設的な意見交換がなされるのは,この美術教育史研究部会ならではのものと実感し継続していきたいものと思いました。今後の美術教育史研究の進展がますます楽しみになりました。

この度も充実感に満ちた部会でしたが,ただ一つ残念であったことがあります。この美術教育史研究部会をいつも盛り上げてくださっている花篤實先生と長瀬達也先生のお姿が見られなかったことです。会員の皆様もご心配されているところであるかと思います。長瀬先生のお住まいの秋田もこの度の地震による大きな被害があったようです。いろいろと大変でありましょう時にどうしようか迷いもしましたが,よろしければ通信に近況等お寄せいただくのはいかがでしょうかと長瀬先生にお伺い致しましたところ,ご寄稿賜ることができました。心より御礼申し上げます。

(1)東京学芸大学の場合  東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科 平野英史

東京学芸大学における美術科教育に関する学科の変遷を,師範学校から新制大学への移行期までと,修士課程の設置から現在までに提出された修士論文の内容の移り変わりとに分けてたどった。

 東京には,1873(明治6)年に創設された教則講習所を起源とする東京府青山師範学校と,1900(明治33)年に設置された東京府女子師範学校とが1943(昭和18)年に合併して設置された官立の東京第一師範学校があった。この他,1908(明治41)年に増設された東京府豊島師範学校(後に官立東京第二師範学校と改称),1938(昭和13)年に増設された東京府大泉師範学校(後に官立東京第三師範学校と改称)があった。これら三つの師範学校と青年師範学校とが統合されて,1949(昭和24)年に国立の新制大学である「東京学芸大学」が誕生する。

 学芸大学の初代学長であった木下一雄は,戦前は東京第一師範学校の校長であり,戦後は教育刷新委員会の委員,日本教育大学協会会長を務めた。木下は,東京学芸大学の開学式などにおいて,この大学の性格が,東京大学の教養学部や,地方の国立大学文理学部の性格と基本的に同一であるということを述べている。東京学芸大学が就業教育に特化した機関ではなく「教員養成も行う教養大学」であるとした。また東京府大泉師範学校の図画科教員であった桂川辰一は,木下が開学式で「本大学は東京大学と芸術大学の二面を一つにするところの大学として,日本に只一つの最も優れた大学としてここに発足することができた」という言葉から,美術科への期待の大きさを感じたとしている。戦前の師範教育への反省と,戦後の教員養成のあり方を示す立場にあった東京学芸大学の象徴の一つとして,美術科は設置されたと言える。

 上述のことを背景として,東京学芸大学の美術科教育は,絵画や彫刻などと肩をならべて,美術科の中に含まれる形でスタートした。美術の専門性をかわれて新規に登用された教員の割合は,完全に新制大学へと移行した1951(昭和26)年には,美術科全体の六割ほどに達していた。また,新制大学発足時から取り組まれた美術科としての体制の強化は,結果として学科目制度の導入を早め,10年以上も他に先駆けた修士課程の設置や,その後の博士課程の設置をもたらしたと言える。

 以下,さらに学科の変遷をたどるために,美術科教育の修士論文内容の推移について,二期間に分割して考察した。第一期は,東京学芸大学附属中学校教員であった新井秀一郎と文部省教科調査官であった村内哲二が初めて修了生を出した1970(昭和45)年から,新井と村内が退官する1988(昭和63)年頃までとし,第二期は増田金吾が新井の後任となり,村内の後任に柴田和豊が赴任した1989年(平成元年)頃から2009(平成21)年までとした。ほぼ20年間が一期間となる。

 第一期における美術科は,教科内容の専門性を重視する傾向が強かったために,種々の目的を持った学生が在籍した。この期間における修士課程の特質は,様々な修士論文の内容を新井と村内という戦前において師範教育を受けた世代が指導したことにあった。そのことにより,この時期に修士課程に在籍した学生の多くが,多様な目的を持ちつつも,指導教員に範を取る研究題目を選択することで,研究方法の習得に重点をおいた。第二期における修士課程の特質は,新井や村内から受け継がれた従来の方法を引き継ぐ増田などによる流れと,柴田などによる新しい方法をとる流れの,異なる二つの流れがあったということである。それらは,指導教員に準じた研究内容を選択することにより研究方法の習得を重視した流れと,個々の学生が美術教育への問題意識を探ることを重視した流れとであった。

本発表を行うにあたり,様々な歴史的資料や修士論文,長い間この大学に関わってきた増田教授からの貴重な意見など,いろいろの情報を基にして立体的な考察を行うことができた。そして,日頃何と無く当たり前に思っていることには,必ず何かの原因があり,そうしたことに関わる事柄を精査することにより意外なことが見えてくるという,歴史研究の醍醐味に触れることができた。

(2)大阪教育大学の場合        花篤實(金子一夫代読) 有田要約

花篤實先生より大阪教育大学の場合のご発表がなされる予定でありましたが,ご事情により配布資料での発表となりました。金子一夫代表により代読されました。大阪教育大学系譜,大学院の制度的確立,さらに学会関連,他学会との関連性など興味深い内容が示されておりました。

学科目制度発足から大学院設置や展開さらには美術科教育学関連学会のことまで,直接ご経験されている花篤先生が会場にいらしてくださっていましたならば,どれほど部会が盛り上がったことか想像するだけでわくわくします。ですが,また日を改めてお話いただける機会もあることと思います。靄をさっと晴らしていただけるような玉言が賜れることと楽しみにさせていただければと思います。
(3) 茨城大学・島根大学の場合                     有田洋子

先進的な東京学芸大学,大阪教育大学の場合が紐解かれた。次に地方大学はどうであったのか示したい。先の項目1.2.3.に沿って,主に人的配置の調査を基本に,美術教育学の制度的基盤の成立過程を明らかにしたい。

○島根大学の場合

 戦前の師範学校から戦後の大学教育学部へ人員はほぼ移行できた。戦後初期の島根大学美術講座は,書道の金森米三郎,図画(絵画)の井上善教,工作(工芸)の天野茂時,図画工作(絵画工芸)の小谷忠芳という体制でスタートした。ただ,昭和42年まで教授に昇任する教官はなく,昭和38年には天野が技術科に移籍するなど,困難な状況であったと察せられる。

 昭和39年の学科目制度発足から昭和45年まで書道・絵画・彫塑の学科目しかなく,いわゆる不完全講座と呼ばれる状態であった。昭和45年より美術科教育を置くこととなり,助手をしていた石野眞が講師となって配属されることとなった。昭和51年に猿田量が美術科教育担当として採用され,石野は構成へ移行した。その後大学院設置の頃まで島根大学の美術科教育は猿田一人が担当した。

 島根大学は平成7年に大学院設置となった。その際,猿田は東京芸術大学大学院美術研究科の修了論文題目は「批評の不在」であり,大学赴任後も美術教育研究とともに美術史研究を続けた美術教育研究者・美術史研究者でもあったためか,美術理論・美術史へ移った。大学院設置のためには美術科教育にマル合と合の教官を揃えることが必須条件であった。新たに美術科教育にマル合と合一人ずつ担当者が必要となり,大阪で中学校教員として活躍していた島根大学教育学部卒業生の真鍋武敷がマル合,筑波大学大学院博士課程芸術学研究科芸術学専攻(芸術教育学)で学んだ川路澄人が合として採用された。この二人から純粋に美術科教育専門の教員が勤務することになったと言えよう。

○茨城大学の場合

 戦前の師範学校から戦後の大学教育学部へ人員は移行できた。大学内外において力のあった稲村退三を筆頭に,美術学校出身の教官が揃っていた。図案科出身の鈴木豊次郎の他は,稲村退三,宮沢治正,巻島友治,大道武男,全て図画師範科出身であった。この四教官は研究発表の分野は絵画であったが,何でもできる図画師範科出身として様々な分野を担当した。美術第一講座(絵画・図案)に鈴木・宮沢・巻島,美術第二講座(彫塑・工芸)に稲村・大道,という体制で戦後初期の茨城大学美術講座は進んでいった。

 昭和39年の学科目制度により茨城大学では美術科教育担当に教授1名助教授1名の定員割当が確定した。美術科教育担当となった一人は宮沢であった。稲村,巻島,大道も図画師範科出身であり小中学校教員の経験もあり,誰しも担当可能といえば可能であっただろう。熟達した美術及び美術教育者こそが美術科教育担当にふさわしかろうということで年長の宮沢となったと聞いている。東京の図画教育指導員として活躍し,戦後は美術教育関連学会も牽引していく稲村のいた茨城大学の場合は,美術科教育への敬意があったと思われる。そしてもう一人の美術科教育担当は昭和38年に構成担当として赴任していた山ア猛であった。山アは茨城大学教育学部第二回卒業生であり,デザイン指導等で名の通った実践家であった。秋山中学校教員をしていた昭和38年,東京教育大学に内地留学して彫塑教育の研究を行っていた。その矢先,同年10月より茨城大学助手となることとなった。鈴木豊次郎の後任として構成へ所属した。翌年4月より1年間東京芸術大学で学んだ。構成を担当するための内地留学であった。そのわずか数年後,美術科教育に移籍することになった。山アは美術科教育関係の授業を担いつつ,研究発表は彫塑で行っていく。この時まではそれでまだ大きな問題はなかった。

 東京学芸大学や大阪教育大学には遅れるものの茨城大学も昭和63年に大学院が設置された。美術講座は茨城大学教育学部の中で第一陣として大学院設置が実現したとはいえ,苦労が全くなかったわけではない。特に大変だったのは美術科教育であった。当時の美術科教育担当は山アと,宮沢の後任の金子一夫であった。山アがマル合,金子が合となるところだが,山アはこれまで研究発表を彫塑作品によって行ってきた。いかに彫塑で優れた業績があっても,美術科教育の審査対象とならない。そこで,山アは美術科教育研究論文を猛烈に執筆した。単著共著問わず僅かの期間内に多量の論文を書き上げた。それにより晴れて審査を通り大学院も無事設置される運びとなった。

○感想等

 茨城大学の山アの場合,中学校教員として彫塑教育研究をしようとしていたところ,構成で大学に採用され,美術科教育に学科目を移り,自身の研究分野は彫塑,と二重三重のねじれが生じている。御苦労があったことを想像する。今は学科目と研究分野は一致していること,美術科教育担当教員が美術科教育研究をすることが当たり前のことだろうが,少し前までは当たり前ではなかった実例であろう。少し前まで,学科目が美術科教育で,研究分野は美術科教育と実技や美術理論美術史等にまたがっていた例もあった。あるいは研究分野は美術科教育とは全く別にあることも大学院設置の前まではあったかもしれない。島根大学の猿田や,後述する富山大学の美術科教育と彫塑を両立した長谷川総一郎,あるいは浮世絵版画研究の第一人者の吉田漱が岡山大学の美術科教育を担当していた,というように両立した事例は少なくないようである。また『美術科教育学会二○年史』に,和歌山大学の長谷川哲哉は,二科会入選の業績があったことが自分の採用理由であったと記している。

学科目制度発足の頃から「美術教育学」というものの存在は認識され始めた。ただ「美術教育学」に教科専門から分離した独自性があるということが認識されだしたのは,教科教育専攻大学院設置以降のここ最近のことであると察せられた。ただ,それが広く一般に認識されているのか,「美術教育学」の独自性が何であるのかの共通認識はできているのか,あるいは美術教育学は成立したのか,ということは明言するのが難しい。それはそういったことが現在進行形であるためかもしれない。少し距離をおいて見られないと歴史上に位置付けるのは難しいと感じた。今回発表できたのも,発表者の物心つく前の出来事であったということも関係しているだろう。お顔がすぐ思い浮かぶ先生方のことを語る時はどきどきした。また,現在,国立大学法人化以降の教員定員減のためか,美術科教育担当者が美術科教育以外の授業をすることも少なくないようである。発表者も美術史の授業を一つ担当している。そして教科専門担当教員による教科内容学の模索も盛んに行われている。それぞれの研究分野の独自性は既に認識されているはずである。が,背景や意味は異なるものの時代を逆行するように何でもできる美術科教育,というか今度は何でもできる美術関係教員というようなものが教育学部において各教員の意思とは関係なく要請されつつあるのかもしれない。この現在の状況も,時が経てば冷静な目で見つめられ,歴史上に位置付けられるであろう。

 最後に,調査にあたって貴重なお話を伺った金子一夫先生,島根大学関係者に厚く御礼申し上げる。

(4)富山大会の全体像と質疑応答の様子    つくば市立豊里中学校 中川知子

富山大会は,震災の混乱がいまだ収まらない中,32627日に富山大学で開催されました。開催そのものを危ぶむ声もありましたが,実際に開催されてみると,雪の降る中,懇親会にまで多くの会員が集まる盛会さでした。 

 直江俊雄氏撮影

二日目の午後に実施された美術教育史研究部会では,予定通り各大学の美術教育学成立に関する調査・研究が発表されました。会場となった教室は講義室で机が発表者に向けて並べられた状態です。そのため発表後にざっくばらんに発言・拝聴するには不向きだったようにも思います。

しかし,美術史研究の歴史上の人物だけでなく,現在も現役で研究をすすめられている先生方に関係する話題は,互いに興味津津の様子となりました。「ここだけの話」と前置きをしながら回想が述べられると出席者一同笑顔となり,密度の濃い話題と気さくな雰囲気の中で部会は進められました。

まず発表がなされ,その後,発表について,質疑や参加者からの補足などが行われました。報告の中には当日参加された先生方のお名前も挙がっております。したがって,発表者の平野氏や有田氏としては,緊張感が普段の発表よりも強かったのではないでしょうか。

宮坂先生から大学名の由来について話があったことを皮切りに,次々と大学名にまつわるエピソードが語られました。「学校の名前のことを言いますと,学校の名前はずいぶんいい加減ですね。なんで横浜国大っていうかっていうと横浜市立大学があるから。市立と国立とっちゃうと両方横浜大学だからね。学芸大学も,ほんとは法令で教育大にならなきゃならないんだけど,東京教育大学があったから。そんで(学芸の名が)残ったので学芸大学っていうのは誇りに思わなきゃいけない,頑張って残さないと。学芸大学の先生ずいぶん知っている先生多いんだけど,差しさわりがあるので言えません。(一同笑い)」といった雰囲気ですすみました。学芸大学の増田金吾氏や高知大学の金子宜正氏が受けて,当事者としてご存じのことなどを語られました。

さらに大学名に関連して「大学の名前とともにいろいろな事情がわかってくるということもあります。愛知教育大学は戦前の師範学校が名古屋と岡崎とにあったため,本当に(距離的に)真ん中の刈谷市に作ったそうです。ほんとに真ん中でお互いに不便とのことです。それに対してほんとに附属学校というのは動かない,附属の方が本体より強いのではないかという気がします」(金子一夫氏)と,名称一つとってもその命名過程に情報があるのだということがわかりました。

質疑の中では「(研究対象となっている)当事者に,早くインタビューしないと」という発言もあり,今現在活躍されている先生方が,美術教育学を作ってきたのだということが分かり,歴史上の人物に直接インタビューできる幸せを感じることができました。

大学関係者にとっては楽しい雰囲気の中語られていることが,私には専門的で理解をするのが難しくもあり,不備があることをお許しいただければ幸いです。率直な感想としては,美術教育学に関して,いつから始まりどのようにして研究が進められてきたのか,不思議な思いでいましたので,こうした研究発表を伺うと,美術教育学という学問そのものが研究対象となっているのだなと,卵が先か鶏が先かというか,研究とはなんて限りがないのだろうと宇宙を見る思いでした。

2.余禄                                   有田洋子

(1)富山大学の場合の紹介                             

 部会終了後,富山に残って富山大学の場合を調べて参りましたので,その紹介を少しさせていただきます。詳細は改めてきちんとした形でと思っております。調査にあたっては,富山大学の長谷川総一郎先生から貴重なお話を賜りました。心より御礼申し上げます。

富山大学の場合も戦前の師範学校から戦後の大学教育学部へ人員はほぼ移行できたようです。戦後初期の富山大学美術講座は,第一講座に曽根末次郎・上原定清・丸山豊一,第二講座に玉生正信・大瀧直平という体制でスタートしました。そして昭和24年の富山大学発足時から平成8年の大学院設置までの間,美術科教育専門に関わった教員は,制度上,長谷川先生お一人であることがわかりました。長谷川先生は言わずもがな美術科教育学会創立メンバーで,美術教育研究者であられます。富山大学の場合,長谷川先生が赴任されてからは,ねじれなく美術教育研究者が美術科教育の学科目を担当することとなりました。長谷川先生が富山大学に赴任されるのが昭和48年です。それ以前は富山大学の美術教育関連の授業は,各先生方で分担されていたようです。特に美術教育学を内容とする授業をされたのが美術理論・美術史の玉生正信氏です。美術教育史についての講義やリード文献の英文講読等が美術教育関連の授業でなされたそうです。他にも昭和24年に島根女子師範から移られた大瀧直平氏や,富山大学教育学部卒業生で昭和28年採用の中谷唯一氏は,美術教育に熱心であったそうです。富山大学の場合は,当時よくあった美術科教育に対する偏見もなかったようです。

 長谷川先生が美術教育学と彫塑を両立してこられたとは誰しもが知るところです。そして彫塑では,ご自身の制作はもちろん作品研究もなさってこられました。現在,富山県の井波は地方寺院の木造建築では日本一の瑞泉寺と世界的な木彫刻の里で知られています。この「世界」という冠をつけることを実証したのが長谷川先生です。身近で側に在ることが当たり前のようになっていて,その魅力に気づかないでいたところに脚光を当てられました。このことは本部会のこのところのキーワードとなっている「当たり前のことへの疑問」とも通ずるように思います。改めて長谷川先生の偉業に敬服いたします。

 また,富山での部会で話題になりました,美術科教育学会の名称はどのように決まったのかといったことについて,くしくも長谷川先生が『美術科教育学会富山大会研究発表概要集』の冒頭のご挨拶の頁に次のように記してくださっていました。「ネーミングにおいては,類似した学会が既に2つあり,それらとの差異を図るためにも,教科教育という名称に倣い,美術科教育のように『科』を特に含めるようにと私が発言したように記憶しています。」 また,概要集には次のように続きます。「その後学会に昇格し,レフリーを設けるなど公共性に耐えうる学会としての組織整備と内容の高度化を課題としてきました。この頃は各県の教育学部に大学院新設の構想が続き,まず教科教育専門の業績づくりが必要とされていた時代です。教育学部で各科教育専攻の大学院を立ち上げる場合,当時の文部省大学院設置審議会は,先ず各科の教科教育領域の成立に優先順位を求めてきました。例えば美術で言えば,絵画や美術史美術理論の成立の前に先ず,美術科教育の成立が必要であったということです。戦後にスタートした教育学部は,各教科内の専門の寄せ集めから成っていましたが,いよいよ教科教育中心の「教育」学部に衣替えかと胸の熱くなる思いをしたものです。」 当時のことを直接経験されている方のお言葉を目からうろこの思いで拝読させていただきました。

  長谷川先生には,ご退任を控えてのご多忙の折に,貴重なお時間を割いていただき,心苦しく恐縮しております。それにもかかわらず快く応じて下さり,貴重なお話を賜りましたこと,感謝しております。文章資料には記されていない実際の様子がうかがえ,大変勉強になりました。そして質問にこたえて下さるだけでなく,美術教育に対する考え方まで熱く親身にご教示いただきましたこと,重ねて厚く御礼申し上げます。

(2)今回の発表までの経緯                                  

 今回の私が発表させていただくことになった経緯を紹介させていただきます。きっかけは昨年から本部会通信で行われている「問答企画」,それを受けての仙台大会での部会「美術教育史に関する問答と資料実見」の美術教育史に関する「素朴な疑問」の受け付けでした。その際,無知な私は,金子一夫先生に本当に素朴な質問をたくさんしてしまいました。「第○回修了研究展」の○に入る数字が大学によって違うのはなぜですかなどということまで質問してしまいました。まさか大学院ができた時期が大学ごとに違うのだろうかなどと思っていたらそのまさかで驚き,しかも専攻ごとに設置されたので,同じ大学内である専攻は設置されある専攻はまだという状況もあったと伺い,さらに驚きました。しかも設置には厳しい審査があり,紆余曲折や悲喜交々があったと伺いました。私が学生の頃,大学院はあって当たり前のように思っていましたが,それは全然当たり前のことではなかったとその時初めて気づかされました。大学院設置までには並々ならぬ苦労があったことを知り,大学院で学べる有難さを認識してもっと勉強しておけばよかった。そうでなくては先人に申し訳ないと心底思いました。

またある大学のホームページを見たら,美術科教育の先生が制作発表中心に紹介されていて,本当に素朴になぜだろうと疑問に思って,これも質問してしまいました。茨城大学は美術科教育は金子先生ですので,美術科教育の先生が美術教育学研究をされるのが当たり前のように思っていたのですが,これもどうやら当たり前のことではなかったことをその時初めて知りました。

そういったお話の中で,あるいは以前に読んだ茨城大学美術科同窓会発行『六号館9 山ア猛先生御退官記念特集号』で,彫塑の先生と思っていた山ア猛先生の学科目が美術科教育であったことを知りました。そう知ったのは,話の中で初めてなのか,同窓会誌を読んだことが先なのかよく覚えていないほど,山ア先生は彫塑の先生と思い込んでいました。山ア先生に直接お会いしたことはありませんが,彫塑作品はいたる所で目にしていましたし,多くの先輩方から山ア先生ご指導による彫塑授業や卒業制作の話,山ア先生の薫陶により卒業後も蝋型ブロンズに取り組まれた話などを伺っていました。山ア先生が美術科教育の先生だと知って驚きました。茨城大学卒業の諸先輩方にも知らない方は多いのではと思います。そして山ア先生が美術科教育を担当されたのはなぜだろうと「素朴な疑問」を持ちました。そこから今回の「美術教育学の制度的基盤の成立過程」と題した部会での報告発表につながっていく次第です。

平成10年代に茨城大学教育学部美術講座の学生だった私にとって,美術教育学を研究分野とする先生がいらして,美術教育学を内容とする授業が行われ,大学院はある,それが当たり前でした。が,どうやらちょっと前までそうではなかったということに最近になって気づいて,ではいったいどのような経緯で美術教育学は成立してきたのか,ということを知りたいと思うようになりました。

まさに「『当たり前』だと思い込んでいることの中に,『全然当たり前じゃない』ことがまざっているかもしれません」でした。今振り返ると赤面の「素朴な疑問」ですが,そこから大事なことが見えてくることがあると思いました。「素朴な疑問」を今後も大切にしていきたいです。

今回の調査にあたって,自分の学んだ大学の歴史を調べる作業は,自らのルーツを探るような思いが致しました。またどうも各大学発足当時のあり様は今に通ずるものがあるようで不思議だと思いました。そして「パズルのピースを一つひとつ埋めていくような面白さ」が歴史研究にはあると金子先生に学生の頃,伺ったことがあります。そのことを身をもって体験できました。昨年からの部会の「問答企画」「資料実見」のねらいの一つに,美術教育史研究の面白さを味わわせて美術教育史研究に取り組む者を後押ししようというものがあったかと思いますが,ありがたくもそのねらい通りはまってしまいました。他大学の場合はどうであったのか,今後も継続して調査していきたいと思います。その際はどうぞよろしくお願い致します。

3.近況報告−大震災と先人たち−              秋田大学 長瀬達也

 富山大会に欠席してしまい,申し訳ありませんでした。3月11日の東日本大震災では,秋田県に直接の被害はほとんどありませんが,諸般の事情で欠席させていただきました。

 被災地の甚大な被害による変容とは比べものにはなりませんが,東北にある秋田県も,地震直後からこれまでとは違う様相となりました。まず,地震直後に秋田市だけでなく,秋田県全域が2日間以上の大停電となりました。秋田港近くの火力発電所などが自動停止してしまったからです。この自動停止は,宮城県方面の地震による停電と連動して発生したそうです。いずれ,石油ファンヒーターなどの電気を必要とする暖房が使えなくなり,照明もなくなりました。情報はテレビが駄目なのでラジオだけでした。秋田県人が大震災による被災地の甚大な被害を,具体的に認識したのは大停電が回復してからです。

 驚いたのは,地震直後からスーパーやホームセンター,コンビニに,あっという間に大行列ができて,物がなくなったことです。要因の一つは,被災した仙台が東北の物流の中心だからです。コンビニのおにぎりや弁当なども仙台からの配送なので,特に学生たちが困っていました。更に驚いたのは,米までなくなったことです。米所と言われている秋田県で,米がなくなるのは信じ難いことでした。秋田県民が大震災によって不安に駆られて,一気に米を必要以上に購入したことが主な要因のようでした。

 一番困ったことは,ガソリン不足です。まず,停電でも手動で給油できるガソリンスタンドに大行列が生じました。停電が回復してからは,ガソリンがあるガソリンスタンドすべてに大行列が生じました。そして,大震災によってガソリンの供給がなくなったので,次第に開店している所が少なくなっていきました。何しろ秋田県は,公共交通機関が不便なので,車を使わないと何もできない所です。また,まだ雪の季節なので徒歩や自転車は無理でした。このガソリン不足が解消したのが,秋田市では3月22日でした。しかし,実家がある横手市方面などは3月28日までガソリン不足が続きました。私の父母のような老人世帯は,ガソリンスタンドに並ぶことが大変なので,ひたすら節約に努めていました。

 秋田大学は,大地震の翌日3月12日が後期日程入試でした。ラジオしか情報がなく,電話が不通なので,入試の実施がどうなるのかは全く分かりませんでした。当日はガソリンスタンドに並ぶ車で大渋滞になっている道路をやっとの思いで抜けて大学に到着すると,停電にもかかわらず1時間だけ遅らせて予定通り実施ということになっていました。地震当日に早々と実施を決めて,発表していたそうです。今思えば,よくやったものです。

 この中で思い出されたのが,大正12年9月1日の関東大震災の直後に,同年1019日から秋田県で開催された「全県図画研究会」及び「作品陳列会」です。期日が10月上旬の予定から若干延期されたものの,甚大な被害を受けた東京から講演講師として白浜徴や松岡正雄を招聘し,県内だけでなく全国各地57校からも図画作品を集めて,「全県図画研究会」及び「作品陳列会」を当時の秋田県の図画教育関係者が開催しました。現在の状況から考えれば驚嘆すべきことだと思います。東京から万難を排してやってきた白浜や松岡の強さと,誠実さにも驚嘆します。そして,「全県図画研究会」などの詳細に関する論文を,今年3月発行の美術科教育学会誌『美術教育学』第32号に掲載させていただいことは,私にとって感慨深いことになりました。改めて先人たちの強さと誠実さに学びたいと思います。

編集後記

初の編集作業で至らぬ点多かったことと思います。にもかかわらず,平野英史氏,中川知子氏,長瀬達也氏には,美術教育史研究の醍醐味や面白さ,今に通ずる先人から学ぶことの意義の示された玉稿を賜り,誠にありがとうございました。また,直江俊雄先生には写真を提供していただき御礼申し上げます。長瀬先生編集の昨年の部会の様子の収められた通信35号を参考にさせていただきつつの編集作業であったことを付け記します。