| わたしのページ(少女と共にクリスマス)第9章 |
少女と共にクリスマス
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船はニューヨーク航路や南米航路の豪華船ばかりではありません。
大阪商船の私の船員手帳の1ページはC丸2851トン戦時標準船(戦標船と呼ばれた)
第2次大戦の終期に大量に作られた、石炭を焚きながら
走る蒸気タービンの船です。
戦争で壊滅されて日本の船は少なく、C丸は燃料の石炭を
甲板に溢れるまで積んで、真黒い煙を吐きながら
外国航路に就航し、資源の少ない日本の復興に寄与していました。
私の初航海は北ベトナムのハイフォン港でベトナム戦争前でしたが,
不気味な銃声が船まで聞こえることがありました。
帰りの航海は、食糧難で苦しむ日本にタイ米をバンコックからよく運びました。

C丸がシンガポールに入港した 1952年
私は21歳で金モール1本を袖に巻いていました。
47年も前のクリスマス・イブのことです。
岸壁で多数の人達が手を振っています。
戦後間もない東南アジアは反日ムードが強く、どう見てもただごとではありません。
その人達は同じ岸壁のオランダ船テケルバーク号に乗った南米在住の日本人。
当時ブラジルでは、日本の戦争は、勝ち組と負け組で二分されており、
訪日し敗戦を確かめ、祖国日本を涙で別れてきた人達でした。
日の丸を揚げて入港したC丸の狭い船室は、歓喜した人で、ごった返しました。
私はキャビンに遊びにきた少女と仲良くなりました。
その少女は、サンパウロに帰る15才のバレリーナE子さん。
後で知りましたが、E子さんはサンパウロのバレエ研究生で
はるばるブラジルから松竹歌劇を受験のため来日した
・・・ 郷愁のバレリーナ・・・と、ラジオや雑誌で紹介されていました。
私は E子さんをつれて、近くの海員クラブを訪ねました。
X’masパーティで世界中から集まった各国の船員達で一杯でしたが、
日本の可愛い少女と一緒の私達に歓迎のスピーチと,拍手の嵐、
外国で初めて迎えたイブの夜を楽しむことが出来たのは幸運でした。
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C丸は南米在住の日本人達と数日シンガポールで過ごしましたが、テ号出航の日、
ドラが悲しく耳に残り、離れ行くテ号から振られる手製の日の丸の小旗が
いつまでも目に焼き付いて消えず、涙が止まりませんでした。
当時航空路はなく、インド洋、アフリカ、大西洋の彼方、
ブラジル、サンパウロの外港サントスまで、地球半周の長い長い船旅です。
話は飛ぶますが、それから 5年ほどして移民船に乗った私は サントスに入港。
20才の美しい娘に成長した E子さんと 感激の再会をすることになります。
この続きは2000年2月15日です
戦時標準船 千早丸 2851d シンガポール1952年 バンコックで日本向け米の積荷
47年前 海峡植民地の首府シンガポールに日本人の姿はありませんでした。
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