わたしのページ  第5章

 極暑のペルシャ湾 U

ペルシャ航路のG丸、1955年、日本の貨物船は冷房装置がなく、扇風機が

唸りながら回っていました。 体温を越える暑さの中で扇風機を回すと熱風です!!

窓をキチンと閉め、チャンと服を着て、じっと身動きせずにいます。

現地人達は頭から足の先まで白か黒一色のベールとダブダブの衣類で覆っています。

砂漠の直射日光と熱風から身を守るためです

そして土瓶に水を入れ携行します。水は素焼きの瓶を通して熱が奪われ、

アイスウォーターに早変り、実に便利な魔法の土瓶。 更に土壁で作られた家の中に

水溜まりを作ります。川の流れの一部を部屋に引き込んだ家もあります。

その自然は水を冷やし、そして部屋が冷えるーーーーーーーー。

これらは長い歴史の中の生活の知恵から生まれたものでしょう。

一方、私達は、月の砂漠をはるばると・・・・タクシーを飛ばして穴場?を見つけたり

海員クラブのプールで泳いだり、玉突きの出来る気温40度の涼しい夜

楽しみでしが、酷暑が予報されていた通り、日中の気温は45度!!、

加えて砂漠の砂とカラカラに乾ききった熱風が吹きつけました。      

寒暖計は50度までしか目盛りがないことを知ったのは、

ちょっと直射日光を受けると破裂してしまったからです。

熱いけれど汗は出ません、出ると直ぐに蒸発して、顔に塩が残っています。

変な話ですが1日に一度しか小便の出ない日が続き、「これはーいかん」でも

悪い病気をもらった覚えはありません。 ショゲタ私を見て、船のドクターは大笑いし

「水をうんと飲め」と言います。 小便も出ないほど体はどんどん乾燥して、

水分がすっかり奪い取られるとミイラになると脅されました。

船で一番暇なのはドクター(当時は船医さんが乗っていた良い時代)ですが、

この航海は違っていました。 病人の続出で船の狭い診察室はごつたがえします。

暑いのは私達だけでなく現地人も暑さのため働きません、いや働けないのです。

荷役は遅れ、湾内に停泊すること実に1ヶ月、とうとう過労でドクターが倒れた翌日

G丸はやっと錨を上げ帰国の途につきました。

私はこのボロ船に1年間付き合って下船、この航路から逃げ出せたと思ったとたん

次に乗せられたのがまた同じ航路の船でした。 しかし ”乗りかかった船”

世界を見てこようと志を立てたのにこれでヘコたれては男がすたる。

私は歯を食いしばってインド・ペルシャ航路を乗りこなし、

待望の南米航路に乗り換える資格を得たのです。(つづく)

 

                 夏の暑い日に熱い話で申し訳ありませんでした...次回は情熱の南米です

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    インド・パキスタン航路 びるま丸               ペルシャ湾 1955年     

        4993 G/T    1962年                    海員クラブプール

 

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