わたしのページ 第3章 |
進路の決定
67年前に韓国のソウルで生まれ、終戦を北朝鮮のピョンヤンで迎え、
38度線を歩いて突破し日本に引揚げた私は、・・・・中学2年の14才でした。
裸一貫で引揚げた私たちは貧しく、ラジオのある家が羨ましかったのです。
昭和20年代の日本はペラペラの薄い新聞と、ガリガリ雑音のラジオが
唯一の情報源でした。 なんとかラジオを聞きたい・・・
私は乏しい小遣いを貯めて、鉱石検波器を使った鉱石ラジオを作り
レシーバーから蚊の鳴くように聞こえる ”りんごの歌” に飛び上がって喜びました。
旧日本軍や駐留米軍放出の真空管や部品を集めて作った再生式ラジオ
スピーカーから、音が出た時の感激は今も忘れられません!!
そしてスーパーヘテロダイン、当時としては最先端のラジオを製作し・・・、
私の進路が決まりました ・・・ 私は無線の学校に進学し
花形の職業だった、第1級無線通信士の資格を得たのです。
世界地図の中心に、赤く塗られた日本を見て、外地で育った私は、
”あこがれのハワイ航路”が流行った1950年ー60年の
青春時代を・・・外国航路の無線通信士として過ごしました。
若い日の思い出 にっぽん丸 (旧 あるぜんちな丸) 1973年