第23章 南米航路・移民船 A
ワールドカップで優勝し、ジーコ日本代表新監督などブラジルの話題が多い中で、
ブラジル、アルゼンチン在住日系人からの電子メールが急に増えてきました。
昭和30年代、私は移民船に乗り、多くの人達をブラジル、アルゼンチンなどに送っていました。
戦後、貧しい日本から新天地を求めて南米などに移住した日本人は6万3千人にのぼりました。
この人達の中で自分達が乗船した移民船の写真を、私のホームページ
「南米航路移民船」から見つけてネットで紹介し合って下さったようです。
海外移住への夢と不安を乗せて航海した40数日、遠い南米に渡り、苦労した時代を思い……
懐かしく思われたのでしょう、当時を思い、祖国を思う心情に溢れたメールから
そのご様子が伝わってきて、胸を打たれます。
南半球、日本から見ると地球の裏側ブラジル、アルゼンチンで、懸命に生きておられるシルバー世代の日系人の方々と、
もう40年も前のことを話題にしながら、メールでの交流が始まり、ホームページを公開して本当に良かったと思っています。
40年前はエアーメール、何日も掛かって届かないこともありましたが、今は世界中に繋がったパソコンに向かい、
キーボードを叩きながら、インターネットの素晴らしさを再認識しています。
貧しい時代の日本、移民政策で、故郷を離れて新天地に向かった移民の方達は高齢化しています。
遠く離れた祖国への切実な思いと二世、三世、そして後世に自分達の開拓史を伝えたいと
昭和37年に移民船あるぜんちな丸でブラジルに移住して、シニア世代になった
日系人は「私たちの40年!!」のホームページを作りました。
あるぜんちな丸第12次航(1962年5月11日サントス港下船)
『ブラジル移民』 戦後40年の記録
http://www.nikkeybrasil.com.br/40anos
そしてアルゼンチンでシニア世代を迎えた人達は「アルゼンチンの日本人移民史」 を編纂中と聞きました。
私は移民船に乗船し.その人達を運んだ者として、移民船の史実を風化させないために、記録しました。
神
戸港の中央に明治初期に造られた長さ200mあまりのメリケン波止場は、現在メリケンパークの一部となりましたが、開港120年を記念して、帆と波をイメージした(1987年)海洋博物館などメリケンパークになっています。
その先端に「希望の船出」の像や海外移住の歴史が刻まれた神戸港移民船乗船記念碑が建立されています。「ブラジル移民発祥の地」の像に刻まれた言葉
子供が指さす彼方は移住する国である
移住者は大きな夢を抱き、一抹の不安を感じながら
「青い鳥」を追って、未だ見ぬ大地を目指し、移住船で勇躍出発した。
移住者は多大の苦難を乗り越え移住した国に根を下ろし、
国際化の先陣として日本との架け橋となり、
移住先の国と日本のために 大きな貢献を果たした。
これらの先人がこんにちの世界中で活躍する250万人の日系人である。
2001年4月28日 「神戸港移民船乗船記念碑」建立
いままさに希望に燃え世界へ旅立とうとする海外移住者の家族像である
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神戸から世界へ 希望の船出 笠戸丸
移民船 笠戸丸の碑 神戸港略年表(神戸開港130年記念展)によると…
1908年 明治41年4月28日
皇国殖民合資会社が、南米ブラジル向け移民を輸送するため、
東洋汽船(株)の 「笠戸丸」を神戸港から配船。
この第一船には165家族、781人(うち単独移民37人)と
自由渡航者12人の合計793人が乗船、大正3年まで随時6隻が就航した。
大正5年12月29日に再び「笠戸丸」が就航し、第2船以降は「たこま丸」型2隻となる