わたしのページ 第2章 |
北朝鮮脱出
現在の韓国の首都ソウルで生まれた私は、父の転勤に伴い
昭和19年北朝鮮の首都となったピョンヤンの小学校を卒業しました。
大同江に沿って平壌の街はアカシアの甘い匂いに包まれていました。
中学に進学した頃から戦局は厳しくなり、勤労動員に明け暮れて、
平壌飛行場から遠く沖縄に向う特攻機を学生帽を振って見送る日が続き、
中学2年生の時に終戦を迎えました。
1年間の抑留生活・・・なにを食べて生きていたか 今その記憶はありません。
だだ腹を空かせた子供たちのために両親は所持金や衣類等を少しづづ手放して
それで食料を手に入れ、家族は飢えをしのいでいたことだけは覚えています。
住宅を接収されて、身に持てるだけのものを持って、最後は四畳半に
家族6人が肩を寄せ合って生活しました。
零下20度越える寒気の中で、日本人は栄養失調と発疹チフス等で、ばたばたと
死んでいき遺体が山積みされました。私たちは遺体を大八車に山と積んでは
毎日毎日、平壌から数キロ離れた山の中に埋めに行きました。
この山は日本人の屍に埋め尽くされたのです。
垢だらけシラミだらけになり飢餓感も日増しに強くなり・・・・
昭和21年夏、死を決した脱出行が始まりました。
北朝鮮の軍票 1945年
私たちは南へ向って 歩いて歩いて、1ヶ月目に38度線を突破。
韓国の開城に駐留の米軍に収容され・・・釜山から博多に向いました。
焼け野原になった日本の土を踏んだとき、生きて祖国に帰ることが出来た
幸福感であふれ・・・・裸一貫になったことなど少しも気になりませんでした。
中学2年に編入し、軍国主義の教育から、民主主義の教育に・・・
私の幼少期は、こうした激動の歴史の中で育っていきました。