第15章 青空と紺碧の海 沖縄
私が沖縄航路に乗船したのは1953年、もう50年も前にことです。
太平洋戦争の激戦地沖縄・・・終戦から8年目でした。
太平洋戦争後の沖縄、奄美、小笠原は日本から切り離されていました。
講和条約が発効した1952年4月、
日本は独立国家として認められましたが、
沖縄は米軍の占領下で、交通手段は船舶だけでした。
若草丸 1112GT(鹿児島/名瀬/那覇)
白龍丸 3207GT(東京/横浜/那覇)
当時の沖縄航路のパンフレット
白雲丸 2284GT(神戸/鹿児島/名瀬/那覇)
大阪商船では白龍丸、白雲丸、若草丸が就航、
運賃は特別2等で東京/那覇15240円、3等で5760円
沖縄B円は3分の1の換算でした。
(日本円3万円がB円1万円の換算)
パンフには主食統制のため、お米を1食1合の割合で
東京/那覇 2升5合、必ず持参する様にとお願いしています。
食糧難の時代を思い出す・・・・昭和28年のことです。
白龍丸(3,207総トン)は貨客船で、東京と那覇を結ぶ定期航路は船客で
溢れていました。当時日本と沖縄との交通は外国に行く以上に困難さがありました。
米軍当局の許可がなければ行くことも来ることも出来ない。そして米軍当局は
極度に神経質で少しでも気に入らない者には許可を出し渋りました。
当時のパンフを見ると身分証明書と入国許可書の携行が義務付けられ、
また、検疫のため種痘・3種混合チフス・発疹チフス・コレラの英文で証明された
予防注射証明書を米軍検疫官のため用意するよう書かれています。
税関の旅具検査や日本円の持ち込み制限もありました。
東京から那覇までは1580km、これはフィリピンのマニラ(1500km)よりも遠く、
紺碧の海が広がり・・・どこまでも続く青空の沖縄!!
昨年、この静かな島で全世界が注目するサミットが開かれましたが、
当時を思い出して私は感無量でした。
太平洋戦争末期「鉄の暴風」と言われた激烈な地上戦で
沖縄の街は灰燼に帰し、
安里川の河口にある那覇泊港・・・
私は近くの琉球神社のある波上宮をよく散策し、
美しく厳しい自然、栄光と苦難の道を歩んだ
歴史を偲びました.。
私の訪ねた頃、米軍用地として住民の立ち入りが
禁止されたところが多く、 黎明之塔
那覇のメインストリートとして多くの観光客で賑わっている
国際大通りは、1953年から整備が行われました。
白龍丸は那覇市の泊港に着岸、
露天が並んだ現在のl平和通り周辺や
独特の香りと味がする沖縄の酒”泡盛”を
飲んだり、米軍から横流しされた食品や
中古衣類等の闇市をウロウロしました。
紙の粗末なペナント
当時、ぬかるんだ小路に足を取られながら、ひめゆりの塔や健児の塔、
多くの人が自決した火炎放射器の跡で黒っぽくなった壕の入り口などは
訪ねる人もなくひっそりとしていました。
米軍占領下の沖縄の通貨は始め軍票のB円で、そのうちドルに切り替わったが
商品の値段は「3ドル1000円」と書かれていて
当時コカコーラ1本が10 B円だったのを思い出します。
東京と那覇を結んで乗客を運び1年近く乗船し、月収手当て込み
15,000円の時代・・・1953年奄美大島がアメリカから返還された頃・・・
那覇港に数々の思い出を残した私は・・・・
インド・パキスタン航路へ転船しました。
白龍丸はその後フィリピン・マヌス島から
戦犯を日本に送還したり
戦後が終わったと言われた・・・
1972年、沖縄が日本に復帰して
航空網が整備されるまで・・・
白龍丸は、石炭を焚いて真っ黒な煙を吐きながら・・・
沖縄航路で活躍していました。
那覇の人
平和祈念展示資料館が、新宿住友ビル31階に昨年11月にオープンしました。
見学した私は 引揚船 白龍丸 の大きなパネル写真で再会できました。
白龍丸は砕氷船で北海道で終戦を迎え・・・1946年旧満州(中国東北部)の
コロ島を出港し、博多港に入港した船内の様子が再現されていました。
高砂丸、興安丸、朝博丸、辰日丸、白山丸等などは中国、シベリア、朝鮮半島
中部太平洋から軍人軍属そして民間人629万人余の引揚に従事しました。
そして・・・私が引揚げた北朝鮮からは29万7千人が着の身着のままで
祖国に引揚げたと資料が残されていました。
平和祈念展示資料館ホームページ http://www.heiwa.or.jp/
( 次回は インド洋の美しい星空 )
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