第16章 インド洋の美しい星空
昨日今日のことは忘れても、昔のことを鮮明に思い出すことが多くなりました。
老化現象でしょうか?。独特の香りと酷暑まで蘇ってくるのがインド・パキスタン。
そしてインド洋の夜の美しい星空も目に浮かんできます。
大瑞丸 6,975 G/T インドパキスタン航路 まどらす丸 6,829 G/T
インド洋はモンスーンに苦しめられました。
6月頃は猛烈な季節風で大時化・・・乏しい気象のデーターで天気図を作ります。
インド洋はインドパキスタン、ペルシャ、中近東、欧州航路そして
アフリカ、西回り南米航路等の船舶が往来します。
インド・パキスタン航路はマラッカ海峡を通過するとセーロン島のコロンボ
(現在のスリランカ)に針路を取ります。
船は木の葉の様に揺れながらコロンボに入港、当時日本では売ってなかった
セイロン紅茶を土産に買うのが常でした。また、宝石商の「安いよ!!」と言う
輝やく宝石に目が奪われて、怪しい石を騙されて買うのも常でした。
インドの西海岸の大都市ボンベイ・・・本場のカレーを食べたいと
若い女性に店を聞いたら、案内してくれました。
香辛料を説明してくれますが・・・スプーン無し、
見よう見真似、左手で食べながら
辛さと香りにやられてか・・・良くわかりませんでした。
ニーナはイギリス系のハーフで美しい海岸に案内してくれました。
美しい星空を見ながら・・・ニーナが言いました・・・
「貴方の言葉はキングスイングリッシュだ!」
これはお世辞?お褒め?
それからの私の頭は和文英訳と英文和訳で混乱してしまいました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ イギリス系の娘
戦時中に中学に入学した私は英語は敵国語と教えられ、これ幸いと
勉強をしませんでした。 戦後引揚げて転校した高校の英語教師は、時間中
英語だけを使い、生徒にも日本語を使うなの授業を受けて、英語で苦しんだ。
ニーナとの出会いで英語が少し好きになり、ニーナとエアーメールを交わしましたが・・・
辞書なしではお手上げで、上手にはなりませんでした。
現在だと電子メールを利用して距離と時間がなくなったが、当時のエアーメールは
何日も掛かり、時には届かないこともありました。
インドは I T 先進国に成長している様ですが、当時のインドは路上生活者
が多く、街を歩いてると何十人も付いてきて「ボクセス・ボクセス」と
手を差し出して物乞いする人が多く、哀れてした。
西パキスタンの首府カラチは砂塵が舞い砂漠の近いことを感じさせます。
雑貨を積んで日本を出港・・・帰りは色んな荷物を積みました。
インドの名もない港、頭に載せた籠に塩を入れて何百人もの
女性達が船に塩を運びます。
港では1ヶ月近くも碇泊して塩を満載して
日本に向かいました。
煙草の葉や肥料の原料も運びました。
戦後の日本には物資が不足していたのです。
東南アジアの米を満載して・・・・
塩を運ぶ女(インドの港) フィリピンからはラワン材を甲板まで
トップヘビーになるまで積んで台風の中を日本に向かいます。
北米からは小麦や大豆そして古新聞、鉄くず・・・
南米から鉱石、豪州からは羊毛・・・
なんでも運んだ気がします。
南米航路の移民船も帰りは組立てベットを
ばらして、ビトリアで鉄鉱石を満載し
日本の製鉄所に運びました。
ニューヨーク航路でブルーリボンを獲得した高速船は、 フィリピンのラワン材積地
ノーホークで石炭を満載、豪華な船は真っ黒になって日本に石炭を運びました。
コンテナ船も鉱石やバラ積み専用船もない時代のことです。
半世紀も前,青春時代のインド洋の美しい星空、
日本の高度成長を支えた頃を思い出しています。
セイロンの娘 パキスタンのカラチ
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