第14章 ハワイ沖 & 津軽海峡
最近のテレビでテスラーが1904年に100年後の世界を予言した言葉の中に
無線通信の発展と、インターネット時代の到来を記した言葉が見つかったそうです。
20世紀の花形産業となった情報通信の仕事に従事できた私は幸せでした。
これまで南米・北米・欧州と花形航路を紹介してきましたが、決して良い航路ばかり
就航したわけではありません。 私が無線通信士の資格を取り、社会に出たのは、
戦後5年目・・・就職難どころか、占領下の企業は満足な経営が出来ず
戦後の混沌とした時代1950年(昭和25年)でした。
電波法が施行され、国が管掌していた電波が
国民のものとなった年でもあります。
長崎県庁に採用されて、長崎湾内の炭坑の町香焼島
旧日本軍のトーチカ跡に漁業用無線局があり、
主として東シナ海に出漁の漁船との通信が最初でした。
モールス通信は漁船特有の踊るような崩れた符号で、
新米通信士の私は解読出来ず泣く思いで交信していました。
どうせ通信するなら漁船に乗りたいと思っていたところ、
高知県室戸岬のマグロ延縄漁船に乗らないかと誘いがあり、
当時高給であった漁船に乗りましたが、 若いだけが取り柄の私に
カジキマグロ 船主も船員達も大いに期待したくれました。
〜〜〜〜〜神奈川県三崎港から カジキマグロを追って 南太平洋へ〜〜〜〜
私の船員手帳1ページに記録された
小さな木造の帆船 第一大鵬丸 88d は出港。
漁労長の期待に応えて私は、「漁なし」と打電する無線通信の情報を解読、
方向探知機で他の漁船の動向を探っていました。
占領下の日本漁船はマッカーサーラインと呼ばれる海域でしか操業が出来ません。
しかし私達は海域外に出て、ハワイ沖まで、カジキマグロを追い続けました。
太平洋戦争で熾烈な戦いが終わった5年目の海は平和でした。
マッカーサー元帥が定めたラインを超えると面白い様にカジキマグロが獲れました。
船員達は体長1mを超える海亀を見つけると歓声を上げ、海亀を大釜で煮て
その全て、甲羅にも舌鼓をうった。今でも油の乗った海亀の美味さを思い出します。
2か月操業して、毎日マグロの刺身を食べた私は丸々と肥って東京港に入港、
満載したマクロを築地の魚市場に陸揚げしました。
築地市場を歩くと・・・2ヶ月も風呂に入らず魚臭くなった私達を人々は避けました。
当時は冷凍設備もなく、悲しいかな氷詰のマグロは多くが腐り、安値の取引になり、
それでも私には2人前の当時としてはかなりの高給を支払ってくれました。
学校卒業時に試験を受けていた運輸省の航空保安庁からの採用通知が来て、
2ヶ月を過ごした漁船の仲間は、別れを惜しんでくれました。
当時日本の航空機は皆無で、福岡県の米軍芦屋飛行場で気象無線通信の仕事に
従事・・・テレタイプや通信機の前で米軍人と一緒に仕事をしました。
当時の友人達の多くは、日本の航空界が再開して航空管制官になったようです。
物資が不足していた学校卒業時に、靴がなくて下駄を履いて試験を受けた
運輸省の海上保安庁からも採用の通知が来ました。
電波が飛躍的に利用され始めた時代で無線従事者が不足していたのです。
船の方が高給だろうの理由だけで若い私は海上保安庁に移りました。
三等海上保安士(司法警察職員)の誕生です。 刑法、刑事訴訟法、拳銃の
射撃訓練を受けて、広島県呉市の掃海艇に乗船しました。
日本近海に米軍がばら撒いた磁気機雷の除去作業です。
電纜に電流を流しながら、航路筋や港内を掃海して周りました。
←掃海艇MS13 いわつばめ (神戸港安全宣言)
安全が確かめられて初めて
港の安全が宣言され港は開港し、
船の出入りが許可されるのです。
神戸港、大阪港から磁気機雷が完全に除去され、開港した式典に
掃海艇から帽子を振りながら参列した時のことを思い出します。
(日本の掃海技術は世界に認められ湾岸戦争でペルシャ湾の掃海で活躍しました)
昭和26年、日本海に浮遊機雷が流れ始めました。そして津軽海峡にも・・・・
当時北海道と本州は、青函連絡船だけで結ばれていました。
私は石川さゆりの歌う「津軽海峡冬景色」が好きです。
青森県の北の外れ竜飛岬と北海道の東南端白神岬の間を
毎日、白い息を吐き、海鳴りを聞きながら
双眼鏡で浮遊機雷を見っけて津軽海峡を航海しました。
浮遊機雷
また 海上保安官として交代で青函連絡船に乗務し、
青函連絡船 洞爺丸 ブリッジで片時も双眼鏡を離すことなく
浮遊機雷の危険から船を守りました。
まだレーダーも監視用機器もない時代
青函連絡船の人命は双眼鏡だけが頼りでした。
青森でも函館でも制服を着て上陸すると大切にされ・・・モテタ?時代でした。
1952年(昭和27年)海上自衛隊が誕生。
そして免状持ちで若い・独身・三男坊の私に白羽の矢が当たりました。
「海上自衛隊の士官を命ずる・・アメリカで
フリゲート艦を受け取れ」の辞令でした。
当時再軍備反対の意思があったわけではありませんが、
何となく軍人?は嫌いで商船に乗ることになりました。
無線通信士の資格で職を転々しましたが・・・・
日本の高度成長のお陰か 資格のお陰か 海上保安官時代
転職する度に給料は上がって行きました。
ホームページが自分史のようになり、これで良いのかなと自問自答しながら
毎月更新して来ましたが・・・特に今回はその傾向が強く申し訳ありません。
( 次回は 沖縄航路 & 海運の復興 です )
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