第11章 日本一周 そして 南米

 初めて乗った商船C丸の懐かしい思い出は鮮明な記憶で刻まれています。

第2次世界大戦の対日講和条約が結ばれた翌年の昭和27年です。

小さな船は日の丸を掲揚して石炭を焚きながらバシー海峡を越えて

戦争で全てを失った日本に懸命に資源を運んでいました。

そして世界に made in JAPAN の商品を運んでいました。

戦後の日本の復興と繁栄はこの輸出入が基になったと思います。

日本海運の果たした役割は大きく、計画造船で船腹も毎年増大しました。

私の会社は、はわい丸、あめりか丸、あふりか丸、めきしこ丸、

すえず丸、ぱなま丸・・・、毎年1万トン級の新造船が2隻づつ進水していました。

 C丸は外国航路から日本一周航路になり、横浜から名古屋、大阪、神戸、門司

日本海を北上し、敦賀、伏木、酒田、そして北海道の小樽、留萌・・・津軽海峡を

函館、室蘭・・・八戸、塩釜等東北の港を経由して横浜へ・・・フエリーや高速道路

どころか、トラックも道路網もない時代の貴重な運搬手段でした。

憧れのハワイ航路、帰り船、港町13番地等など海の流行歌が流れ

歌詞ではマドロスパイプをくわえた船乗りさん・・・港港に女ありと言われていましたが・・・

私達はそれどころではなく、朝入港して夜出港で仕事〜仕事、

職種によっては上陸も出来ず働き働く毎日でした。      

終戦後の占領下、日本から外国への航空路は皆無で    

外国に行くには船を利用する以外に方法はありません。

p'wilson.jpg (131158 バイト)    天皇は昭和28年、皇太子の頃、アメリカの客船

                   プレジデントウイルソン号で渡米しました。 

                  横浜の大桟橋は大騒ぎで

                   別れのテープの波で溢れました。

           この船の後ろに停泊したC丸は、            

    日本一周航路、私が初めて乗船した船でした。                                                                                  

                                           皇太子渡米 1953年 P号

                                                                                                                           

                      私のページ 第9章 少女と共にクリスマス

    C丸 シンガポールでの少女との出会いの続きです

E子さんとの出会いはシンガポール、もう半世紀も前のことです。

海員クラブのクリスマスディナー(20th Dec.1952)その時の招待状とメニュ

そしてE子さんからのエアメールが大切に保存されていました。

私にとって大切な大切な思い出です。

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             1952年 クリスマス ディナー    in  Shingapore Marine Hostel

 

シンガポールでの出会い以来、私達の文通が始まりました。

E子さんからの便りは美しいローマ字の便りでした。

エアメールは船会社経由で私の船が寄港する港に届けられました。

E子さんのローマ字の手紙は 「日本語の勉強をしています」 と

ひらがなや漢字が混じるようになりました。

南米航路に乗船しサントスでの再会を夢見ながら・・・文通は5年続きます。       

eriko.jpg (19096 バイト)eriko2.jpg (541850 バイト)

 1953年 千早丸へのAIRMAIL          1958年 あめり丸へのAIRMAIL             

私は東南アジア・インドパキスタン・ペルシャ・アフリカ一周各航路に

就航する船に乗船した後、待望の南米航路移民船A丸に乗船出来ました。

サンパウロの外港サントスに入港し、E子さんと5年ぶりに再会しました。

15才の少女は20才の娘・・・そして私は26才になっていました。

A丸に1年余乗船しましたが、サントスに入港するたびに

サンパウロのE子さん宅を訪ね、私達の心に愛が芽生えました・・・

しかしクリアすることがあまりに多く、 E子さんは母1人の家庭でした。 

「E子を日本に連れて行っても良いよ」 と言ってくれましたが、

母を1人きりにして日本に連れてくることは出来ませんでした。

日本に来ても、船乗りだった私は、E子さんを慣れない日本に

1人残して外国航路に乗船することになります。

私が養子になりブラジルで生活することも考えました。

 しかし当時ブラジルは地球の裏側の遠い遠い国でした。

 航空路はなく唯一両国間を繋ぐのは40数日の船旅だけです。

私の両親と兄妹、親族は猛反対・・・ブラジルまで養子に行かなくても!

日本に良い人が沢山いるのに!日本からのエアーメールは続々と寄港地に届きました。

涙のあとが残る母からのエアメールは、外国で読む私には堪えました。

                  あまりにも大きな問題に、若い二人はどうすることも出来ませんでした。 

  休暇下船の決まった最終航海・・・  brazilmaru.JPG (137370 バイト)

  寒い日本に向かう私のために編んだ        

  白いマフラーをE子さんから渡されました・・・

             南半球は真夏でした。

       サントスを出港する夜、

       私達は泣きながら

           別れの言葉を交わしました・・・

           若かった私達は手を握り合っただけの関係でした。

現在では国際化が進み諸外国との交流や国際結婚も容易になりましたが、 

これは40年も前のことです。

その後、E子さんはどんな人生を歩まれたのか分かりません。

涙があふれたE子さんのつぶらな瞳が私の脳裏に蘇ることがあります。

生きている間にもう一度!サンパウロの街とサントスの港を歩きたい!!

 

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             サンパウロ(御茶ノ水橋)    1958年     サンパウロ(サントスへの道)       

                 OSK Line 南米絵の旅  絵葉書  Por S Ishikawa                              

 

                            ( 次回は 濃霧のテームズ河畔 です )  

  

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