第17章 私は元気がなくなったが、日本もバブルが弾けた頃からか 不況、倒産、金融破綻、失業そして政治が駄目になり、 国民の政治不信、最近のデフレ傾向など等どうも元気が出ない。 自民党が変り政治が変り日本は元気が出てくるのだろうか? 私が船に乗っていた頃の日本は、戦後の復興に国民は一生懸命で・・・ 外国から資源を輸入し Made in Japan 製品を世界各国に輸出し 高度成長を遂げてきた。 貧しい時代だったが、夢があり希望があった。 船倉に日本製品を展示して見本市船が世界を回った。 その第1船が あとらす丸で世界を回って帰国した後、私は乗船した。
あとらす丸 10,447 G/T 次は さくら丸が見本市船として建造された。 日本は元気だった。 さくら丸 13,082 G/T 時代が変り現在の日本は・・・メイドイン中国、韓国、ベトナム、台湾など等の 商品で溢れている。そして日本は元気を失っている。 私達は夢と希望を持っために何を目標にしたら良いのだろうか。
国立がんセンター 病院の窓から 晴海埠頭、レインボーブリッジ・・・ 遠くお台場が広がっていた。 退院したら是非行ってみよう!! 病後1ヶ月目に、東京ベイエリア、アクアラインとお台場散策コースの 東京ベイエリアを観光はとバスで周った。 お台場の船の科学館に南極観測船“宗谷”が係留されていた。 私は西アフリカ航路あとらす丸時代にタイムスリップ、 南極からの帰りの宗谷とケープタウンで交流して以来約40年目である。 インド洋を航海する日本船は、宗谷と交信し、南極と日本との通信の 中継をしていた。 当時は通信衛星もなく、短波で電離層反射を利用して モールス通信をしていた時代である。 ケープタウンの宗谷は威風堂々としていたが、お台場の宗谷は 全長83m幅15m・・・えらく小さく頼りなく見えた。 私は感動のあまり目頭が熱くなった。
お台場で南極観測船 宗谷 と40年振りの再会 昭和11年建造された宗谷は総屯数2,736トン、海軍の特殊船として、 戦時中はガダルカナルに出動、戦後は樺太からの引揚に従事、 そして海上保安庁で灯台業務船だったが、昭和30年南極観測船に決定した。 砕氷船として生まれ変わった宗谷は昭和31年全国民の大きな夢と期待の中、 第1次南極観測にむけ東京港を出港した。厚い氷に閉ざされたり、 太郎次郎の犬だけの南極での越冬等など多くの明るい話題を残して、 昭和37年第6次まで南極観測船として活躍した。 昭和30年40年代の日本は元気があった。 未来への希望に燃えていた。 大阪での万国博覧会 東京オリンピックそして高度成長が続いた・・・・ いつ頃からおかしくなったのだろう? 国民は政治不信となり 構造改革だの財政再建だのIT革命など掛け声ばかりで 沈没寸前の日本には元気がない !! 内閣が変り大きく日本も変ろうとしているが・・・ 将来に夢と希望を持ちたいものです!!。
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