第13章
4月1日から介護保険が始まった。 私にも介護保険証が送られてきた。
手引書には、65才以上の人(第1号被保険者)全員に送付したと記載されていた。
2000年の年頭に歳を忘れるぞ!!とひとりごとを言ったばかりだと言うのに・・・
あなたは介護が必要な歳になりましたよ〜〜と告知されて?
急に歳をとった様な気になった。 手引書によると
介護保険のサービスを受けるには、要介護認定の申請が必要だと言う。
介護が必要になった時点で保険証の交付を受け
要介護認定の申請をすれば良いのではないだろうか??
足腰が弱ってきて日常生活に支援が必要になったり、
寝たきりになった時に保険証が必要だと言う。
こんなサービスを受けられる歳になったことを認識し
保険料をチャンと納めなさいよ! と言われているようだ。
これは介護サービルを受けたくない私の”僻みのひとりごと” です
母の日、多くのものを残して逝った母を思い出す。
昭和の始め小学校の教員だった母は、
厳しく 優しく 教育熱心で 私は幸せだった。
1932年 母と私
☆ 母は年賀状を1通1通丁寧に書き、94才の年賀状が最後になったが・・・
母の住所は現住所ではなく、
生まれ育った実家の住所になっていた。
遠い故郷を想う母の心情が胸を打った。
実妹にこの話をしたら、下記のEメールが届いた
母さんの晩年の年賀状、
私もあのとき 、胸が一杯になりました。
1日に1枚やっとの年賀状 差し出し住所は生まれし里なり
無事着きし老いたる母の年賀状 差し出し住所は恋がれし故郷
母の最後の年賀状
☆ 母はお洒落が好きだった。ファッションは人を明るく元気にしてくれると言い、
デパートに行くのが好きで、歳に似合わない買い物をしたり、
化粧品売り場で化粧してもらって、溌剌としていた。
ファッション・モデルが持つような化粧品ケースに
高価な化粧品を入れて、入院し、最後まで美しく化粧していた。
☆ 母はデパートで食事するのが好きだった。
晩年、入院した母を車椅子で連れて、どこに行こうかと聞くと
返事は決まってデパートである。食堂で座る場所も何となく同じで
注文は カレーライス、私には黒ビールを飲む様に奨める。
母は終戦後、デパートで食事するのが楽しみだった様である。
座る場所、カレーライス、黒ビールで 父との思い出を 蘇らせていた。
そして自分が食券を買うと言い張り、私はいつもご馳走になっていた。
☆ 晩年、聞いたことのない歌を楽しそうに唄う母を見た。
明治時代の小学校の唱歌だと恥ずかしそうに笑った。
実妹にこの話をしたら 次のような Eメールが届いた
母さんが私の家に来たとき、
お酒の勢いか面白い歌を歌ってくれた事がありました。
女の一生を表したものですが
18才の母 1920年 今になって聞きたいことが沢山ありすぎ悔やまれます。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
二月三月花ざかり、うぐいす鳴いた春の日の、
楽しい時も夢のうち ♪♪♪
五月六月実がなれば、枝からふるい落とされて
近所の町へ持ち出され、何升何合量り売り
もともとすっぱいこの体 ♪♪♪
塩に漬かって辛くなり、紫蘇に染まって赤くなり
七月八月暑いころ、三日三晩の土用干し、思えばつらいことばかり
それも世のため人のため、しわは寄っても若い気で
小さい君らの仲間入り、運動会にもついていく ♪♪
まして いくさのその時は、なくてはならない このわたし
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪ ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
この先もあったような気がするのですが分かりません。
あの時はいつもと違う ちょっと 恥ずかしそうな
母さん、印象に残る一コマです。
催促しても二度と歌ってくれませんでした。
私は母の日にカーネーションを贈った記憶がない。
4年前に94歳で亡くなった母
母は私に多くのものを残してくれたが、
私は息子や娘に 何を残しただろうか。