「獨協医科大学病院に転院」

平成6年5月7日に病院の車で始めて外に出ました。この時此ほど外の空気が美味しいものと感じた事がありませんでした。

主任看護婦さんが同行してくれましたが、晴天の日であったため時々見たことのある景色を眺めて一路独協医大に向かった。手続き済ませ何処をどのように行ったか分かりませんが、着いた時には7階の病室にいました。
妻が質問を受けナースステションに一番近い2人部屋に移されました。確かに喉にマスクをした人が多かった。
隣には一週間前に手術し声帯を取った70才過ぎのお爺ちゃんが入院していた。話によると日光で郵便局にいたそうです。
看護婦さんが記入した記録を見て教授と助教授に自分の担当したオペ等を一週間に一回(木曜日)治療を交えて報告していた。

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リハビリの担当医師の診査の結果、体幹機能障害を持つ首下の身体全体の運動PT(理学療法)と、右手に握力のないOT(作業療法)の訓練の指導を受けた。
三日後位に午前中はPTと午後はOTとリハビリが始まった。
PTは平行棒につかまり歩行の仕方・立位バランスの訓練、アキレスケン伸ばし・車椅子からの立ち上がりの訓練等毎日繰り返し続けた。
その内畳から立ち上がる左右の訓練・両足膝でマットを歩行する訓練等続けました。
午後からはOT約1時間やりましたが、当初は右手に力が入らないため、左から右に移す作業をしましたが、なかなか上手く出来ず時間ばかり掛かって、毎日の繰り返しで除々に力が入り時間が短くなりメニーが増えてきました。
一通りの作業が終わると小豆の入っているビンを皿に空け、箸で小豆を戻す作業を毎日繰り返し、それが出来るとピンを箸で掴む作業をした。
これもご飯や料理をスムーズに出来るためであった。

時には皮の状差しに自分の好きな絵を書いて着色しました。
又、額にユリを画き着色したタイルを壊しボンドで貼り付けていきました。熱中し時間の忘れる事もありましたが、何れも1ケ月位かかった。
七月七日の七夕に願いを込めて折り紙に書き、柳の枝に縛りつけ一週間位飾ってあった。

OTが終わると病院の裏門(大学の正門に近い)に行き、空気の臭いもしないのですが新鮮を感じ毎日空気を胸一杯吸い景色を眺めていました。
日課の一つで景色を眺めるのと、知らない患者さんの顔を眺めながら車椅子で手スリを左手でつたわって中庭の噴水を眺めました。
時にはぼんやりと、早く「食べられたら良いな、話出来たら良いな、歩けたら良いな」自問自答を繰りかえしました。
病院が広いので車椅子で一回りすると20分か30分かかりました。


「獨協医大病院で第1回目のオペ」

第1回目のオペが5月下旬頃行われました。意識のある全身麻酔は生まれて初めてなので不安で成りませんでした。医師が良く説明してくれアレルギー体質どうか検査をしOKとなった。勿論妻も一緒に聞きました。

当日午前10時にオペに入ったが、その前は落ち着きが無く胸の鼓動が聞こえその内に意識が無くなっていました。ただ覚えているのは多分オペが終わって喉の脇を1.2度触れて居ることであった。
オペが終わって腫れが引けるまで一週間は身動きせずベットに横たわり医師が来てくれ、妻は身の回りの世話をしてくれました。

一週間後軽くPTとOTをやり、落ち着いた頃、医師が鼻で息するため喉の穴を十円玉位の柔らかい物で塞ぎその上から衛生テープで止め、 流動食を鼻から流していたので看護婦さんが何度も大丈夫と言ってくれました。
訓練と思い苦しかったが大丈夫と言ってそのままOTに行きましたが、15分位過ぎた頃に額面真っ赤になり息が付けなくなり、OTの先生が医師を呼び衛生テープを剥がすして貰い、それ以来訓練をしませんでした。

その間色々と検査をし、例えば暗算で加算したり減算したり簡単な乗除算したりルートの加算をして脳の能力を確認したりしました。

耳鼻咽喉科の専門室で地震を測定する似ている機械で、首と胸の何ヶ所かに線で機械に結び麻痺した喉が微かに動き波がエンジされたと思います。
又味も臭いも判らない飲み込むことが出来ないバリュウムを医師言われ時間かけてごっくんと3度程飲み込み喉から半分位バリュウムが出ました。


「獨協医大病院で第2回目のオペ」

いよいよ2回目のオペが実行される前日7月26か27日だと思います。夕食が終わって暑さで閉口してましたが、妻が外は幾らか涼しいのではないかと言って妻の押すままに車椅子で外に出た。
平成6年5月7日に病院の車で始めて外に出ました。この時此ほど外の空気が美味しいものと感じた事がありませんでした。

外は暑かったが時折涼しい風が吹き蛍光灯がぼんやり霞で見え正面玄関の噴水も暑さのためか鈍い音と聞こえました。
1時間位外に居ましたが妻が何か話したのですが覚えていません。

二人部屋の最初は入口ドアの側にいて、窓の比較的明るい方はポリープを手術したSさんが入院し、10日経って退院しました。始めて知ったのですがポリープの手術は1週間位話できないそうです。そう言えば入院したとき「今話出来ないです」と、ボードに書いていたTさんを思いだします。Sさんが退院し比較的明るい窓際に移りました。 その間声帯を取った元郵便局長のおじいちゃん、50代の声帯を取り胃の手術をしたおばさん、未だ若い40代の歩けないお母さんと入院してましたが、時には窓際に手の届く所にハトが2.3羽飛んできて飴を食べながらポポーと鳴き「早く治って」と私には聞こえました。 相変わらず冷房のモーターが側にあって喧しくて眠れない日々が続きました。
二回目オペが終了し喉の腫れが引くのも一週間位かかり、腫れの引くのを待って伸びた髭を巧みに主任看護婦さんが剃ってくれました。普通の人より毛が豊富なのに−−。
こんな事も有りました、担当医が都合で見て貰えないとき、新人看護婦にメモで食ってかかり「一晩寝せないのか」言って夜の九時半頃担当医に来て貰い、医師と新人看護婦さんを困らせた。又、朝早く四時頃と思うが枕元のブザーを鳴らし眠い目を擦りながら飛んでくる看護婦さんに携帯用のベンザを持ってくるように指示し困らせた。それ以来、寝る前に済ませるとか、看護婦さんが起きて居るときにと心がけた。


「4人部屋に移動」

喉の腫れが退けて4人部屋に移動しました。前から頼んで置いた窓際なので視野が開けたようで明るく感じ、話すことが出来ないので頭を下げて挨拶をしました。私は7Fに入院していましたが、PTとOTの訓練は1Fにあり、エレベーターも患者用と一般用に別れていて、何時も1Fに集中しているせいか、エレベーターはどちらも混んでいました。

主任看護婦さんが外に散歩に連れてってくれ車椅子を押しながら、四季折々のイベント等を話してくれました。帰りに何時も1Fのお昼にオニギリや弁当等売っているが横目で眺め通り過ぎて居ましたが、恨めそうに眺めるを見て「馬場田さんも近い内にオニギリや弁当を思う存分食べられるようになりますよ」
と言ってくれた。目に暑いものが浮かんできました。
食堂がOTの行っている真向かいにあったので、OTが終わると臭いは分からないがウインドーのメニーウ見ては何時かは食べられると眺めていた。

「色々な人との闘病生活」

長く入院してますと色々な人との出会いがあります。 短くて1週間の入院で済む人もいました。印象的なのは、夏休みを利用して鼻の手術をした小学生で隣のベットにいましたが、回復が早く時間を持て余し何やかにやといたずらし、両親や看護婦さんを困らせていました。
向のベットにはOさんが若いのに電気店の営業し、将来郡山に出店するように見受けられました。 斜め向には大手企業に勤務し手術二回目位で、ダイビィングが趣味でよく海に潜った話をして、手術が終わると無線で楽しんでいました。
95歳になるお爺ちゃんが入院していましたが、耳に補聴器を当てていましたが70歳後半若く見え老人とは思いませんでした。最も娘さん達が70歳を越えている。多分誕生日が11月中旬頃で見習い看護婦さんが誕生祝を行って大変喜んでいる様子でした。 タクシーの運転手さん等2・3人入院し退院して行きました。


「なぜ右と左の体温が違うの」


風呂に入れないため1週間に1回位看護婦さんに身体を拭いて貰いました。
家内が今日お湯で足を洗うからと言われ洗面所で待ってました。
少し大きめの洗面器にお湯が注がれましたが、左足を浸し平気でいたところ 「熱っくないの」
と言われ右足を浸したところ数秒も熱くて浸しておりませんでした。
こんなに左右の温度が違うのか初めて知りました。
これがWallenberg(ワーレンベルグ)症候群で、首より上顔面・頭の右側が麻痺し、首より下身体の左側が麻痺していました。

温度にはそれ以来神経質になり使い分けるように心がけました。



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