1993年(平成5)12月14日の午前10時半頃職場で気分が悪くなり汗が額からこぼれ落ち救急車で市内の病院に運び込まれましたが、病院に運ばれ暫くは意識が有ったようです。 3日位意識が無くおぼろげに川の向こうで誰か呼んで、多分その時生死をさまよっていたと思います。 意識が戻った時にはICU室で喉に穴を開け酸素で呼吸をしていました。 病院で医師が月2回程来院していました耳鼻咽喉科専門の医師を紹介してくれました。 脳梗塞(小脳)で顔面右半分麻痺、首下の左身体が麻痺、言葉が話せないWallenberg症候群(ワーレンベルグ)と診断されました。 「ショピングを楽しむ」 前日日曜日に今年一斉の休日が最後のため、午後からショピングセンターでショピングを楽しんでいました。身体の怠さを感じたが気にも留めませんでした。 一回りしてレジーに向かった時、目の前が真っ白になり何も見えなくなり身体が揺れ、それが5分間程続いた。自分では地震と思っていたが、レジを済ませ外のベンチで休み少し変なので掛かり付けの病院に行き血圧を計って貰ったが普通と変わりないので薬を貰って帰宅し、その夜は何でもなく過ごしたが、その時から兆候が有ったのかも知れない。 「病院に運ばれる」 病院に運ばれ暫く意識が有ったようでノートに訳の解らぬ事を書いた様で、騒がしい声だけが聞こえ、その内意識が無くなってしまったようです。 3日位意識が無かったようで、妻から後から聞きましたが喉に淡が詰まって呼吸が出来なくなり意識が無くなって喉を切開したそうです。 おぼろげに記憶あるのは、不透明な川がありその両サイドの土手には綺麗な花が咲いていて、私を誰かが手まねきで呼んでいました。多分その時は生死をさまよっていたと思います。 意識が戻ったときには、ICU室で喉に穴を開け酸素で呼吸をし、小便はビニール袋にクダでしていました。昼夜も解らず身動きもせずベットに横たわり、酸素の音とジージーと言う喉から淡を抜き取る音だけが聞こえてきました。 一日うち朝・昼・晩と30分の面会しか許されませんでした。勿論家族も会社の用事等もその時間しか面会が出来ず、文章に成らないあれもこれもと書きました。 10日位たって鼻から通していたクダから「ビンに黒いコータルみたいなもの」がたまってストレスですと言われ集中治療室に移されました。 「集中治療室に移される」 そこは4人部屋でしたが、私はまだ酸素呼吸が3分の2でありましたので喧しかったと思う。 食事は鼻から管を通し流動食でした。何度も白いご飯を食べたいと思ったか分かりません。 パン一切れで試してみたが食べられず、別な気管に入ると大変な事になる言われやむなく止めてしまいました。 年が明け約1ケ月たった頃リハビリの先生がおいでになり、一週間位ベットで行ったが挑戦からリハビリ訓練室に来てほしと言われました。訓練は体力を付けるためのPT(理学療法)が主でした。この時ベットから車椅子への乗り移りの仕方を教わりました。 酸素ボンベを車椅子に付け妻に押して貰って毎日通いましたが、短い距離でありましたが長く感じました。ピーチバルブから淡が零れる事もあり、歩行訓練も足が動かず歩行機で10M〜20M歩行するのがやっとでした。 部屋の人、周りの人が「頑張って」と勇気づけてくれました。部屋は面会謝絶であったがナースステションを通さず直接面接に来る方もいました。 妻は私のベットの側に寝泊まりし、恥ずかしい話ですが幼児の時しかしなかったオムツ等の世話をしてくれた。交通事故で入院したていた奥様と気持が通じ会い色々と相談した様で、今でもお付き合いをしてます。 2月始めだと思いますがHさんの計らいで集中治療室から普通の二人部屋に移動しました。Hさんは小学校の同級生で毎日来ていたそうです。 その時には酸素呼吸が3分1に成っていました。 「普通病棟に移つて」 幸いにして二人部屋であったが一つのベットが空いていました。 消灯9時になるとナースステションから看護婦さんが来て淡を取る作業をしてくれました。 静かになった部屋で酸素の音だけが鳴り響き脇にいた妻が寝れなかったと思う。妻が用事があり宿泊しなかったが、その日に限り水道の蛇口をしっかり閉めなかったので、ポトン・ポトンと水の滴る音が流し台に跳ね返り酸素呼吸のため身体の動きの取れぬまま一晩中眠れない日があった。 会社の手配により妻が3月初旬駅前のテナント店から病院に近いテナント店に通い、夕方には私の身の周り世話をして病院からお店に通勤していました。 一週間に一回部長医師が廻り担当医師に状態を聞いていました。 ナースステションに配属された新入看護婦さんの紹介があったが、最初は慣れない手つきであったが日を追う毎に上達していくのが目に見た。 夜になると妻が取ってくれた友達のテープをイヤホーンで毎夜楽しみながら繰り返し聞いていた。 3月中旬頃、月2回来ていた担当主治医が耳鼻咽喉科の平林医師を紹介してくれました。平林医師は宇都宮の獨協医科大学病院の助教授で呼吸の安定した私を、ピーチバルブ押さえ低くはっきり出る声を確認し、喉にマスクのしている同病人が沢山居ると説明された。勿論妻にも説明しベット待ちとなった。 その間妻と看護婦さんに迷惑掛けまいと思い携帯用のベンザを持ってきて貰い汗をかきながら頑張った。臭いが解らずまして風呂にも入っていなかったので、部屋の空気が淀んでいたものと思う。4月初旬に脳出血で倒れた人が入院してきた。 <夜9時になると妻が帰るので当初不安で一杯でした。 |
闘病記へ戻る 他県の専門病院で闘病生活へ進む |