PTA活動  子供会活動  公民館活動  町内会活動  会社勤務   


「PTA活動」

PTA活動は会社の勤務時間を取って、 丁度30才前搬で長男が小学4年生の時だったと思います。私の知らない間に会計監査に推挙され総会で承認されたと会社に電話が入りました。子供が学校にお世話に成り、年に3回位行けばいいとゆう条件で引き受けました。
次回の総会で三役(会計)に選出され会計の流れを変えて2年間勤めました。

「子供会活動」

子供会活動は3年目に地区の順回りで方部長を引き受け、子供達との触れ会いコミュニケーションに没頭しました。
どちらか言えば学校のPTA活動は両親のコミュニケーション多く、方部の活動は子供達と両親の触れ会いが多かった。夏休みに入ると朝6時頃ラジオ体操の音楽を鳴らし子供達と一緒にお年寄りが体操をしている光景が思い出される。
又、夏休みの期間中子供達の自立心を高めるのと、想い出を作るのに磐梯青年の家に泊まりを実行した。勿論スケジュールが決まっており、オリエンテーションやオプションは親が考えて子供達はそれに添ってグループで自分達で実行しなければならない。
冬休みに入るとクリスマス会を催して子供達と触れ会いを取った。
二年後に私の意志を継いで妻が方部長をやった。

「公民館活動」

35・6才頃です。PTAの三役をやっていたときPTA会長が公民館の館長に任命された。月に一回公民館運営委員会が開催され月々の事業計画が話されました。
1年間実行し把握ところで、明るい町づくり推進委員会・体育協会の会計に先輩のご指導の基に推薦されました。
大きな事業として年に一回の地区の運動会と秋に開催される文化祭とがありました。ネックに成ったのはお互いのセクションで寄付を貰う仕組みに成っていたことです。会の事業を実行するために会員が地区の同じ事業所を廻って3・4回寄付を貰ってました。このネックを何とか出来ないか考えた末、公民館運営委員会に計って貰い色々の意見が出ましたが、最終的に承認されました。
内要は地区文化行事実行推進委員会の組織を地区の著名人や町内会長・各セクションの会長と会計で構成され年一回の寄付で済み寄付の配分をされます。
勿論事業の大きい運動会・文化祭・各セクションも総会を開催して、事業報告と決算報告をして承認を貰いました。
貴重な協賛金として戴きました事業所には、広告効果があるかどうか分かりませんが、運動会と文化祭のプログラムに協賛事業所として載せていただきました。そのなごりが今でも続いているようです。

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「町内会活動」

子供会の方部長であったときネックに成ったのが、町内会のお祭りの山車でした。恒例の夏祭りが7月末頃、神社が作詞作曲した太鼓・笛・鐘と櫓で演奏し練習の結果が評価されてました。
その時他の町内会の子供達を世話していた方に、山車の事を話したら昨年造ったばかりと言われ、規模が違うが色々と調べた結果四・五拾万で出来る事が分かった。
一生懸命練習した子供達、その成果と子供達の想い出として残してやりたい思いからそろそろと提案してみた。今まで自動車に積んでやっていたが、町内の年間行事のメィーンであるお祭りが殺風景であると誰しもが思っていた。立派に子供達の想い出の山車が出来上がりました。協賛してくれた事業所や町会の人達に感謝の気持ちで一杯でした。
山車の出来上がり記念して、町内会より子供会に盛り上げるために、何か企画の要請がありました。皆さんに計ったすえ「縁日」をやる事に決定しました。少ない予算で綿飴・金魚すくい・輪投げ等、身を惜しまず会員皆さんが実行してくれました。お陰様で山車の披露に相応しく成功をおさめました。
PTA活動も公民館・町内会活動も諸先輩のご指導とご協力があり、子供達の想い出が根底にあり、これを遣るんだ信念が私を駆り立てた思います。
ここに諸先輩に感謝申し上げる次第です。又、PTA活動・公民館・町内会活動に於いて陰の力に成ってくれた妻に頭の下がる思いです。
   

「会社勤務」


40代前搬に会社も多忙になり公民館活動も公民館運営委員会の会計監査を残し後の役職を辞任しました。 以前から有った会社を大手企業との業務提携のため会社の名義変更をしました。<例年半年前にトップから次年度(4月から始まる)の方針が示されました。 各部門(営業部・製造部・FS部・管理部)方針に基づきセクションで課題を抽出してデスカッションされるのです。 トップダーンされた方針がボトムアップの声(ボイス)として上がり課題が決定し政策が決まり数字に展開されるのです。其れをまとめ全体的な数字を作るのが私達の仕事でありました。
売上高・粗利益・人件費(労働分配率)・その他経費・営業利益(製造利益)が目標額に合致しないと戻されていた。勿論私も管理部門所属なので営業外収支のコントロールの課題が出され政策として出していた。最終的に利益計画が出て税務計画が出ましたが、政策が実行出来ないことも有るので、リスクを考え三通り位作成しました。
新規事業のプロジクトの一員であったり、組織変更も変更し又、バックに公認会計士・税理士がいて指導の基に会社設立も出来ましたし、勿論机上での関連会社のコントロールもしてました。



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