2926m(室堂→折立)
鳶山から越中沢岳(左)に向かう途中に姿を現した薬師岳(右奥) |
2011年7月31日の夜、竹橋から室堂行の夜行高速バスで翌朝7時2分に室堂に到着しました。48人乗りのバスですが、天候不順のためキャンセルが多く16人しか乗車しませんでした。
8月1日(月)から4日(木)にかけて室堂から薬師岳を目指し、太郎平小屋から折立に下りました。室堂から槍ヶ岳まで続く西銀座(ダイヤモンド)コースと呼ばれているルートの北部に当たります。天候は太平洋高気圧がいつもの年よりも弱く、オホーツク海高気圧から冷たい寒気が日本上空に流れてきていて、台風による南からの暖湿流より断続的な雨に見舞われました。 天候が悪く、期待していた山頂からの眺望は得られませんでした。ほぼ等間隔にある五色ヶ原、スゴ、薬師峠のキャンプ場で野営をして、3泊4日の山旅をしました。今回利用したキャンプ場は、沢水を利用できるので水で困ることはありませんでした。テント泊の重い荷物を背負ってのアップダウンの多いこのコースは体力をかなり消耗しました。
登山中で印象に残った3ヶ所をあげます。
1.鳶山から越中沢乗越のロープでの垂直な岩場の下りは、重い荷物を背負っての経験がなかったので不安でした。2本杖を手に持っていましたが、バランスを崩した時のことを考えれば、セオリー通りリュックに収納してから岩場を下らなければいけませんでした。
2.スゴノ頭の肩からスゴ乗越の下りは、雨の中を滑らないように大岩を慎重に下りました。
3.北薬師岳から薬師岳までの岩尾根を歩くが、霧の中に浮かんできたピークが薬師岳と思って歩いていましたが、何度も期待を裏切られました。また、途中短かったですが、西側が切れ立った細尾根を通過する箇所もありました。
雨中でのテント泊なので、テント内で水気と悪戦苦闘しながら休みました。ガスバーナーも雨で濡れて発火装置が点火せず、ライターを使用して点火したこともありました。また、このコースはエスケープルートがないので、もし天候が悪化したら滞留しなければなりません。天候が悪化した場合は、小屋泊まりも考えていましたが、3泊ともなんとかテント泊をすることができました。時間的に余裕のある人は雲ノ平や槍・穂高まで脚を伸ばす人もいました。今回の登山で、今まで遠い存在だった秘境・雲ノ平も身近なものになりました。
立山温泉(1973年に廃湯 ザラ峠経由)から五色ヶ原を経て、尾根伝いに行った。越中沢山を越えて、薬師の稜線に取りかかってから頂上までが、実に長かった。この厖大(ぼうだい)な山は、行けども行けども、頂上はなおその先にあった。やっと達したが、それは薬師北峰と呼ばれるもので、本峰までそれからまた大きな岩がゴロゴロした長い道のりを行かねばならなかった。 |
第1日(8月1日) 室堂 → 五色ヶ原キャンプ場(11張/80張)
距離 6.100km
沿面距離 6.340km
累積標高(+) 663m
累積標高(−) 670m
玉殿の湧水で水筒の水を満たす。 | 鬼岳東側斜面の雪渓。大小2つの雪渓を横断する。 | ザラ峠。佐々成政もここを通過したのでしょうか。 | 五色ヶ原のキャンプ場 |
「ここらあたりはよく人が迷ったり死んだりするところです。私の村では、佐々成政の家来たちの亡霊がたたっているのだと云っておりますが、なにただの迷信ですよ。そんなことがあろう筈がありません」と長次郎が云った。 「佐々成政? ああ冬の最中(さなか)に山を越えて越中から信濃へ出たという大将のことか・・・・・」柴崎は云った。その話はどこかで聞いたことはあったが、くわしいことは知らなかった。 「そうです。佐々成政はこの峠を越えて、黒部川に出、更に針ノ木峠を越えて信濃の野口というところへ出たのです」 長次郎は食事の用意をしながら、その話をした。 佐々成政が百二十名の家来を連れて富山を出発したのは天正十二年(1584年)十一月二十三日(陽暦に直すと十二月二十四日)であった。途中芦峅寺(あしくらじ)に立ち寄って、案内者数名を雇って、ザラ峠(当時は沙羅沙羅峠と呼んでいた)に向かった。ザラ峠を越え、黒部川の上流の堅い氷を踏んで更に深雪の針ノ木谷に入り、針ノ木峠を越えて信濃にでるまで数日を要した。この間、猛吹雪にあって、百二十名中、生きて、信濃の土を踏んだのは僅かに主従七名であった。 佐々成政は諏訪で徳川家康の使者に会い、更に浜松まで行って家康に会って、豊臣秀吉との間の取りなしを依頼した。佐々成政は、豊臣秀吉に心を許せない男として睨(にら)まれていたのである。徳川家康は、佐々成政の心情をあわれに思って、一応は取りなして見たが、あまり効果はなかった。佐々成政は間も無く九州の熊本に転封(てんぽう)され、ここでの失政を責められて、尼崎に召出され切腹させられた。天正十六年のことである。 「なにしろ百人以上の人がこのあたりから針ノ木峠にかけて次々に死んで行ったのだから、いろいろと、気味の悪い伝説が生まれるのも、あたり前でしょう。旦那方のような、学のある者は信じられないことですがこんな話もあります。このザラ峠付近だけは地盤が弱く、毎年土砂が崩れ落ち、その砂が成願寺川を沈めて、洪水を起こすというのも、やはり、佐々成政の家来たちの怨念のなせる業だというのです。ほんとうかどうかは知りませんが、佐々成政のころまでは、このあたりは密林だったのが、おおぜいの人が死んで、その死骸を荼毘(だび)に附すために、このあたりの木を切って以来、山崩れが始まり禿げ山になってしまったということです」 長次郎はそこで話を止めた。なんとなく話が暗くなったからである。 「今夜はここで死んだ佐々成政の家来たちの亡霊に会えるかもしれないな」 生田が冗談に云ったが、柴崎も長次郎も黙っていた。風が強くなった。 その夜、暴風雨になり、天幕が吹きとばされないように、天幕の支柱を倒し天幕を頭からかぶり寒さをこらえながら夜明けを待った。翌朝、立山温泉に下山した。 |
鳶山から越中沢乗越に向かう下りでの越中沢岳 | 越中沢乗越から振り返った鳶山 | 越中沢乗越から東側に針ノ木岳と黒部湖が見えた。 | スゴの頭 |
鳶山には、かつて大鳶山(おおとんびやま)と小鳶山(ことんびやま)のふたつのピークがあった。しかし、1858年4月9日(安政5年2月26日)に発生した飛越地震によって、日本三大山岳崩壊(富山県の鳶山崩れ、長野県の稗田山崩れ、静岡県の大谷崩れ)と称される鳶山崩れが発生し、大鳶山と小鳶山は大崩壊を起こした。大鳶山と小鳶山は完全に消滅し、立山カルデラに大量の土砂が流れ込んだ。
鳶山はもと大鳶山小鳶山と二山あったときく。立山連峯に含まれる。安政五年(約百二十年前)にこの二山が地震による大崩壊を起こし、大量の土砂を押出し、このため下流にあたる常願寺川はひどい洪水になり、以来、山も川もずっと暴れ続けてきた、という歴史をもつ。その時、二山のうちの一山は崩れつくして消えてしまい、残って今なお土砂を出しているものを、大小なく、ただ鳶山と呼ぶのだという人もあり、地図を見ても鳶山は一つだけで、大鳶小鳶二山の記載はない。ただしかし、鳶の近くに鷲岳というのがあり、古く地図作成の折に鳶を鷲に間ちがえ、その間違えがいつのまにか定着して現在に至っているという人もあるというし、その辺のことはどうも私にはわからない。いずれにせよ、いま鳶と呼ばれ、なおまざまざとした崩壊の肌を見せている山が、この林の切れるところに見えるわけである。 立山温泉をはるかに見おろすところへ出た。もとはここに湯宿があったのだが、今は廃屋になっているのがみえる。地図にも立山温泉と記されているが、閉鎖なのである。崩壊危険地だからだろう。見るかぎりでは、樹木もあり、平坦でもあり、いかにも山の湯といういい感じだが、ここがカルデラの中にであり、温泉がふき出しているのだと思うと、つい地の下はどんなふうになっているのかと恐れる。またそれ故に、かつては人の住んだ跡のなつかしさに、見返り見返りした。 |
北薬師岳山頂。標高があまり違わないので薬師岳まで楽に行けると思っていたが予想外に苦労しました。 | ライチョウが出迎えてくれました。 | 3日かかって登頂した薬師岳山頂。薬師如来を祀った祠があります。 | 中央カール | 薬師峠のキャンプ場。手前の緑のテントが私のテントです。 |
第4日(8月4日)薬師峠キャンプ場 → 折立
距離 6.939km
沿面距離 7.076km
累積標高(+) 91m
累積標高(−) 1032m
太郎平小屋の前で。雲ノ平や黒部五郎岳への分岐になる。 | 下山路の太郎坂から薬師岳を眺め別れを告げる。 | 折立登山口。バスは予約制だが予約なしでも乗れました。マイカー登山者が多く駐車場は満杯で路上駐車していました。 | 富山駅から歩いて5分ほどの観音湯で汗を流し、さっぱりする。 |
カメラは2台持っていきましたが、実際に使用したのはポケットにはいるコンパクトカメラでした。天気が変わりやすく、重い荷物をかついでいる時は、片手で操作できるコンパクトカメラが便利でした。
今回の登山は毎日天候はあまり良くなかったですが、日焼けのケアが大変です。次回は日焼け対策をして出かけようと思います。
テント、寝袋、リュック、衣類、食器などの後片づけが一段落しました。登山中に登山靴の中が水で湿っぽくなったのでこれから靴の水漏れをチェックしようと思っています。
時間に余裕がある人は亀有(かめがい)温泉がおすすめです。有峰ダムの工事中に発見されたそうです。