小瀬 甫庵(おぜ ほあん) 太閤記 巻八   「佐々内蔵助 真忠を励まし 雪中さらさら越の事」
 そもそも佐々内蔵助成政(さっさくらのすけなりまさ)、元は尾陽春日井郡平(比良)の城主たり。その後信長公に越中守護に封ぜられし。されば先君の恩懇を忘れずして、ひととせ(織田)信雄(のぶかつ 信長の次男)卿と秀吉卿、鉾盾(むじゅん)に及ぶこと有しとき(小牧・長久手の戦い)、信雄(のぶかつ)卿味方に与(くみ)し、越中にして義兵ををこし、秀吉卿には敵対せり。天正十二年霜月(旧暦11月)下旬、深雪をもいとはず、さらさらごえとて、嶮難無双の山路に行き迷いぬ。これはいづれの地をさして思召立(おぼしめしたち)給ふぞやと、従いし士共(ども)問しかば、遠州へこえ行、家康へ相看(しょうかん 直接会う)申、来春は羽柴筑前守を討ち亡ぼし、信雄(のぶかつ)卿御本意を達せらる謀(はかりごと)を尽し、帰国に及ぶべきなり。かねて汝等にしらせたくは思いけめど、賀州(加賀)において、沙汰(さた)無きようにと、ふかく忍び出(いで)しによりて、左もなかりしなり。富山を出てより十日ばかりは、前田知(しる)まじ。ほの聞(きき)てより決定(けつじょう 確信を持つ)の間五日、かくて陳(陣の意)用意五、六日はあらんや、上下(往復)二十日には帰城すべし。その間は病と号し、伽(とぎ 身辺の世話)の者五、六人、かよひの小姓十人ばかりには、起請をかかせて、この義を知(しら)せつつ、毎日膳をもすえ、常々有やうにこしらえをきしなり。かく思い立てよりは、ただ急がんよりほか、よろしき事なきぞとて、雪になづまぬわかきばらを百人ばかりめしつれて、大山の嶺わきに攀(よじ)上り、南を見れば山下に里ありとおぼしくて、柴折くぶる煙たえだえなり。いざ煙を心あてに下りみむと、かんじきといふものに乗(のり)ておとしければ(勢いよく降りる)、真忠(成政の真の忠節)の心ざしを天感じ給ふにや、思ひの外やすやすと麓の里に着(つき)にけり。民のかまどに立入(たちいら)ん事のうれしさに、あんなひもせず入(いり)しかば、老たる樵夫(きこり)胆(きも)を消し、これは変化の物ぞかし。今この雪中に人間のわざにはあらじと不審しあへりぬ。小姓の長、建部(たけべ)兵庫頭(かみ)といひし者、いやとよ、越中より信州深志(松本)辺へ心ざす人にてあるぞ。宿をかしまいらせ、道の案内もせよ。汝等心やすくあらんほど、引出物給べしといひしかば、それよりいとねんごろにもてけうじけり。

 越中外山之城(富山城)十一月二十三日に出て十二月朔日(ついたち)午(うま)の刻(正午)に上の諏訪に着しなり。これより家康へ飛脚をもって申達しければ駿州府中まで乗馬五十疋(ぴき)、伝馬百疋、迎ひとして仰付(おほせつけ)られ、宿等に至るまで、一として不如意なる事露もなきうに、徳川殿さたし給ひしによって、雪中の労苦を忘れつつ、十二月四日遠州浜松の城に至り、家康卿に対面し、羽柴筑前守秀吉を討亡し、信雄(のぶかつ)卿御本意達せられ候様に相議し、翌朝打立(うちたち)清州の城(信雄の居城)に至て御礼申上、これから評議を尽し、すなわち請暇(しんか)せ令(しめ)(暇を願う)、また深雪に山路をたどりたどり越中に立帰りけり。かく義を守り信を厚くせしによって、秀吉卿とは不和にぞ成にける。その後信雄(のぶかつ)卿と秀吉卿和睦有しかば、佐々かひなき義守り、何事も徒(いたづら)になって、越中四郡を、三郡羽柴肥前守に給り、一郡佐々に与へられ候し。されば世の中物うかりけるに、雪のみその時を忘れず音づれしかば、

     何事も かはりはてたる 世の中を
           しらでや雪の  しろくふるらん

と、ふる事ながら思い出られにけり。

 内蔵助両年(二年間)遊客の身となり、秀吉卿に順(したが)ひ有しが、九州退治の時、肥後国を恩賜(おんし)に因て入部す。旧臣嫉(ねた)み侍る事有て、敵対せし者をば大臣(たいしん)になし、江州(ごうしゅう 近江)横山(横山城 浅井長政の支城)以来労功を積し者をば、さびしくし給う事を、うらみがおにみえしかば、秀吉そのあらましを知給ふて、勿論旧臣の恨、その理なきにあらず、されども、佐々は、信長公にして左右(一,二)を争ひし傍輩(ほうばい 同僚)なり。ことに素性(性格)、至剛(しごう 剛健なこと)に、多勢をも進退せん(意のままに人を動かす)者なれば、かく有しぞかし。しかればすなわち恩懇に強(しい)てあらざるか、実はその人取(とる)なり。旧臣の累功をもそれぞれに対してん物(てんぶつ 天から授かった物)を、ゆるやかにもなき事(余裕のない事)を云つるよと、おぼし給ふと見えたり。時にあたつて佐々いかめしく面(おもて)ををこせし有さま、いとうるわしく(立派)ぞみえにける。