明治時代の堀内と新井薬師

 

田山花袋の「東京近郊一日の行楽」という本の中で、堀内の妙法寺と新井薬師が行楽地の一つとしてとりあげている。1889年(明治22年)に新宿・八王子間に甲武鉄道が開通した。鉄道ができるまでは、妙心寺(高円寺の南の還七沿いにある)に行く主要道は、新宿から淀橋を経て、中野村の鍋屋横丁から青梅街道をはなれ和田村境を経て、堀内村の妙法寺に行った。鉄道ができると中野駅から歩いて妙法寺に向かったようだ。堀内と新井薬師を武蔵野の面影を残した秋の一日の散策のコースとしている。

田山花袋 1871年(明治4年)〜1930年(昭和5年)

 群馬県館林で生まれる。1907年(明治40年)に赤裸々な現実描写をした「蒲団」を発表し、島崎藤村や国木田独歩らとともに自然主義文学を確立した。代表作はほかに「生」「妻」「田舎教師」「時は過ぎゆく」「一兵卒の銃殺」などがある。「東京近郊一日の行楽」は1923年(大正12年)に刊行されている。

堀内と新井薬師

堀内妙法寺新井薬師

 堀内と新井の薬師とは、昔は東京の西郊での流行佛で参詣者が中々多かったところである。塵事じんじ(俗事)の多い都会を出て、一日畑の中でも摘草でもしながら、佛にさいするといふことが、かれ等の趣味に適してゐたのである。
 しかし、今ではさういふ趣はすつかりなくなつて了まつた。電車が出来て、そこに行く路なども変わつた。堀内のお祖師様への路は、もとは、中野町の中ほどから左に折れて入つて入つたもので、長い長い門前町で、今の路の出て行くしがらきあたりは、丁度その真中位になつてゐたのである。そこが今では、中野の電車の停車場が出来たので、そこから近路を開いて、すぐしがらきの角に出て、そして祖師堂へと達してゐる。門前町なども、昔に比べると、非常に衰へてゐる。當年の茶屋小屋は半ば農家になつて了まつてゐる。
 寺は池上の本門寺と共に、東京附近での屈指の日蓮の霊場だが、伽藍が最も宏壮で、近郊の流行佛中屈指のものと言ふことが出来る。本堂には高弟日朗の作つた日蓮の木像が安置されてある。毎年、秋になると、本門寺と共に例の会式で、題目太鼓の音があたりに鳴りひびいて、境内は立錐の地もないほど雑踏する。
 しかし、この附近は秋に散歩すると好い。林に透る日の影、田に熟した稲、徑を彩づた野花、優に都会の塵に汚れた頭をいやすことが出来る。
 堀内の名物は、黄金煎餅、唐辛子。
 新井薬師はこれとやや方向を異にしてゐるが、その間の距離は一里位しかない。電車の出来ない時分には、私などは、よく堀内から新井までてくてく歩いて行ったものである。それに、其間には丘あり、林あり、山畑あり、秋の美しい空ありで、武蔵野の趣きがまだ多くそこらに残つてゐたものである。中野の電車の停車場のあるあたりは殊によかつたものである。しかし、今では、もうさういふ趣きを何処にも見出すことが出来なくなつて了つた。
 今は新井の薬師は子育薬師と言つて、参詣者が中々多い。それに、眼病にも霊験があると言ふ。
 堂は矢張立派だ。門前にある料理屋も昔と比べては、非常に大きく立派になつた。秋の散歩に、栗飯などを食ひに行く人はかなりにある。
 柿なども名物である。
 ここから落合にある火葬場の傍を通つて、高田馬場の方へ出て来る路があるが、これは、ところどころ、神田上水に沿つてゐて、秋は蘆荻ろてき(アシとオギ)などが多く、水車などがきしつてゐて、一日の散策には持つて来いといふところである。
 新井から井草の善福寺池へは、一里に少し遠い位だ。昔は萩(ハギ)の名所であつたが、今は寺もなく、萩もなく、池も榛莽しんもう(くさむら)の中に埋もれ果てて了つた。


1889年(明治22年)4月11日 甲武鉄道 新宿・立川間で蒸気機関車運転開始(途中駅 中野駅・境駅・国分寺駅)
               英ナルミス・ウィルソン社B1タンク蒸気機関車
         8月11日 新宿・八王子間全線開業
1904年(明治37年)8月21日 甲武鉄道 飯田町・中野間で電車運転を開始
               木製2軸車(デ950・デ960・デ963・デ989・ニデ950)