田山花袋「蒲団」より

 時雄は雪の深い十五里の山道と雪に埋もれた山中の田舎町とを思いやった。別れた後そのままにして置いた二階に上った。懐かしさ、恋しさの余り、微かに残ったその人の面影をしのぼうと思ったのである。武蔵野の寒い風の盛んに吹く日で、裏の古樹には潮の鳴るような音がすさまじく聞こえた。別れた日のように東の雨戸を一枚明けると、光線は流れるように射し込んだ。机、本箱、びん、紅皿、依然として元のままで、恋しい人はいつものように学校に行っているのではないかと思われる。時雄は机の抽斗ひきだしを明けて見た。古い油のみたリボンがその中に捨ててあった。時雄はそれを取ってにおいをかいだ。しばらくして立ち上がって襖を明けて見た。大きな柳行李が三個細引で送るばかりにからげてあって、その向こうに、芳子が常に用いていた蒲団―萌黄唐草の敷蒲団と、綿の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引き出した。女のなつかしい油のにおいと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟のビロードの際立って汚れているのに顔を押し付けて、心のゆくばかりなつかしい女のにおいをかいた。
 性欲と悲哀と絶望とがたちまち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷たい汚れたビロードの襟に顔を埋めて泣いた。
 薄暗い一室、戸外おもてには風が吹きれていた。