中野刑務所

西武新宿線の沼袋駅から中央線の中野駅に行く通りの右側に高い塀に囲まれた中野刑務所があった。塀の中の様子はまったくわからなかった。子供の頃(昭和30年代)、中野刑務所からの脱獄囚がいた。夜、パトカーが注意を促すメッセージを発しながら盛んに行き来していた。私は家の中で脱獄囚がいつ飛び込んでくるかと恐怖心を感じた。翌日の夕刊に王子で捕まったと報道され、随分遠くまで逃げたものだと感心したものだ。現在は刑務所は取り壊され平和の森公園、東京都下水局中野処理場、法務省矯正管区矯正研修所になっている。左の写真は旧中野刑務所の門で法務省矯正研修所に記念に残っている。

歴史

中野刑務所は、明治43年3月から昭和58年3月まで三代(豊島監獄時代(明治43年〜大正11年)、豊多摩刑務所時代(大正11年〜昭和21年)、中野刑務所時代(昭和32年〜昭和58年))73年間の歴史がある。当所に収容された者は105,957名に及んでいる。そのルーツは「小伝馬町牢屋敷」にその端を発する。明治8年に市ヶ谷に移転、明治43年に中野に移転された。大正14年に制定された「治安維持法」による、政治犯や思想犯を多く収容していたことで有名である。昭和21年3月に連合軍に接収され連合軍の犯罪者を収容する拘禁所(スタッケード)として昭和31年9月まで10年間使用された。昭和30年代になると全学連の活動が活発になり、60年安保の時代になり公安被告の収容にあてられた。昭和40年代になると70年安保や学園紛争の被告たちが収容された。中野区民の緑と水の防災公園の実現に向けての刑務所解放運動により昭和58年3月に廃庁となった。

刑務所の生活から

藤本敏夫

きずな

昭和四十七年四月二十一日、金曜日、晴。私は懲役三年八ヶ月の実刑判決を受けて中野刑務所に収監される。

収監されたのは中野刑務所七舎北下。ヌメッとした空気が澱む新人懲役者の独居房。約二ヶ月間の監獄生活訓練期間中に私は歌手の加藤登紀子と結婚した。それは唐突な結婚であった。私の予測する人生に「結婚」と「子供」という言葉はなかった。少なくともそれまでは。
「刑務所に入る時の思いは一言でいえば『過去との決別』だといえるかなア」とは言っているが、連合赤軍の一連の事件が大きな影響を与えている。「テレビや新聞を見るたびに辛くてなア。よく知っているやつが殺された方にも殺した方にもいて、自分の体から生血を太い注射器で抜かれてゆくような気分やった」
私にとって刑務所は良い逃げ道であったのかもしれない。相手は国家権力だ。ほとんど不可抗力に近い命令で社会から隔離されるのであるから、自分を客観的に見るという贅沢が許される。まさに人生の徳政令を発せられる所だから使いようによってはまことにもって都合がいい。私もこの徳政令の恩恵にあずかろうとしたに違いない。「刑務所に入る時は今迄のことを一切引きずらないという思いだったから、少し肩が張ってたんだろう」

そんな気分でいた中野刑務所に加藤登紀子はやってきた。彼女の面会申し込みを受けた中野刑務所は私を呼び出し聞き正した。
「藤本、加藤登紀子という人を知っているか」
別に隠す必要もないから私は答える。
「はい、知っています」
「どの様な関係だ」
「親しい友人です」
「それだけか」
「それだけです」
後年、加藤登紀子はいまいましそうに語った。
「ガッカリしたわよ、あの時は」
「看守がネ、申し訳なさそにいうのよ『刑務所では友人の面会は許されません』って。あなたが『内妻だ』といってくれれば会えたのよ。刑務所では内妻も本妻も同じらしいわヨ」
数日後、加藤は私の担当弁護士近藤俊昭に手紙を託し、接見室で私は手紙を通して加藤と対話することになった。金網越しに近藤弁護士が広げた便筆には「お腹のなかに私とあなたの子供がいる」「結婚したいと思っている」「とても悩んだが自分なりに結論を出した」ということが書き連ねてあった。
私の判断は早かった。すぐその場で近藤弁護士に「先生、彼女の気持ちはよく分かりました。『結婚に同意する』と伝えてください」と依頼した。

しかし、早い判断の割に暫くのあいだ頭は混乱していた。その日の夜、黒いシミの点々とする天井を見ながら「過去を断ち切るなどということが出来るはずはないんやなア」「高倉健のような格好良さは絵空事なんだ」と一人ごちた(独り言を言った)。歴史は未来からやってくるとしても、過去を切ればまた未来もまた切れてしまう。その意味でも私に対して加藤登紀子は大きな役割を果たしたといえるだろう。文字通りかすがいにとなった長女美亜子はその年昭和四十七年十二月七日に生まれている。

大杉栄

豊多摩監獄から妻伊藤野枝に送った手紙

「室は南向きの二階で、天気さえよければ、1日陽がはいる。見はらしもちょっといい。毎日2時間ばかりの日向ぼっこで、どれだけ助かるか知れない。この監獄の造りは、今までいたどこのともちょっと違うが、西洋の本でお馴染の、あのベルグマンの本の中にある絵、そのままのものだ。まだ新しいので気持ちがいい。

「獄中消息」−「豊多摩から」

仕事はマッチの箱張りだ。煙草と一緒にもらうあの小さなマッチで、本所の東栄社という、ちょうどオヤジと僕との合名会社のような名なのだ。(僕のおやじは大杉東と言った)。一日に九百ばかり造らねばならぬのだが、未だ三分の一もできていない。それでも、今日までで、二千近くは造ったろう。ちょっとオツな仕事だ。もし諸君がマズイ出来のを見つけたら、それは僕の作だと思ってくれ。
朝七時に起きて、午前午後三時間半ずつ仕事をして、夜業がまた三時間半だ。寝るのは九時。その間に本でも読める自分の時間というものは、三時の夕食後、夜業にかかる前の二時間だ。夜業が一番いやだ。
本といえば、あとの本はまだかな。いつかの差入れは去年中にすっかり読んでしまって、この正月の休みは字引を読んで暮した。何分もう幾度も監獄へお伴して来ている字引なので、どこを開けて見ても一向珍しくない。あとを早く。

亀井勝一郎

幽閉記

僕は刑務所という装置を思い出すたびにいつも感心するのだが、これは人類の発明した一種の威嚇芸術ではないかと思う。或は権力の生んだ空想であり、神話の世界のやうにも感ぜられる。
平静に帰るとともに、僕は徐々に周囲を眺め、観察し、考えはじめた。この地上には不思議なものがあるものだと。高い塀と鉄の扉によつて、社会とは完全に隔離されている一角がある。その中には、円形の看視所を中心に、花弁のやうに放射型に建てられた煉瓦造りの建物がある。豊多摩刑務所は、関東大震災のとき剥離した壁をそのままにしてあつたので、殊に古城らしい感じを与へた。内部の房も所々煉瓦がむき出しになり、崩れかけた壁も修理されず、廃墟に幽閉されたやうな思ひを深めるやうに出来あがつていた。
春に入つたとき、この樫の若葉が繁茂する夏の頃には出獄出来るにちがひないと、あてもなく期待してみた。夏になつた。この樫の葉の紅葉する頃には出られるかもしれぬと期待をかける。秋になつた。この樫の葉の枯れつくす冬にこそはとのぞみをかけてみる。冬が来る。春の若葉の頃にこそ、今度こそといふ風に空しい希望をかける。そして再び春がめぐり来り、やがてまた秋となる。僕は老人のやうに、愕然として時の迅速な推移をみつめる。時計も暦もないこゝでは、時の流れは一条の光芒に似ている。それは一瞬のやうでもあり、また永遠のごとくにも思われる。

小林多喜二

独房

高い窓から入ってくる日脚の落ち場所が、見ていると順々に変って行って−秋がやってきた。運動から帰ってきて、扉の金具にさわってみると、鉄の冷たさがヒンヤリと指先にくるようになった。
僕は初めて東京の秋の美しさを、来る日も来る日も赤い煉瓦と鉄棒の窓から見える高く澄みきった空に感じることが出来た。北の国ではモウ雪まじりのビショビショ雨が降っている頃だ。今までそうでもなかったのに、隣の独房でさせているカタ、コトという物音が、沁みるような深さで感ぜられる。隣の同士は「全協 *日本労働組合全国協議会」だろうか、P(無新 *無産者新聞)の人だろうか、Y(無産青年 *全日本無産青年同盟)だろうか、それとも党員だろうか? 秋深く隣は何をする人ぞ。

中野重治

多少の改良

1930年と32年から34年へかけて合計29カ月間私は東京豊多摩刑務所で、最後の1カ月は病舎で、一被告人として暮らした。そのあいだの自分一個の経験にもとづいて、刑務所での被告人の取りあつかいの改良の一部について書きたい。日本の行刑を論じたり刑務所の仕事を批判したりするのではない。批判と改良とは別の人と場面とにまかせる。ただごく卑近な、多少の改良について書きたいのだ。それが改良されるべき、また行刑制度の今日の建てまえからいつても完全に改良できる性質のものと私は信じる。
私は被告人としていたのだから受刑者のことは知らない。また豊多摩にだけいたのだからよその刑務所のことは知らない。(しかし市ヶ谷刑務所のことは多少知つている。)私の知つている範囲からいえば、豊多摩刑務所での被告人の取りあつかい方は――以下すべて被告人のことだけ――名古屋、静岡、川越(支所?)などには及ばぬが、市ヶ谷よりはだいぶいい。東京が大東京になつたとき、『朝日新聞』だつたかが「大東京案内」を出して、「豊多摩刑務所の設備は東洋一だ」といつていた。だれにとつて東洋一なのか疑わしいとしても、看守たち自身よその刑務所より身びいきでなしにいいと言つていて、私もうなずけなくはない。悪いところはもつと悪いのだろう。
もちろん刑務所は警察・裁判所と解け合つている。両者から切りはなして刑務所の話だけを持ちだすのでは十分正しくはない。しかし私は切りはなして書かねばならぬ。断つたとおり私の書くのは一部分だ。

食事のこと
食いものについてはたくさんあるが割愛する。ただあまり鳥目にならぬよう、カリエスにならぬように願いたい。めしは33年秋以来ひどくわるくなつた。正月の御馳走の落ち目の目立つこと。しかしそれよりも、あの秋以来それまで朝めしについてきた沢庵の尻つぽがなくなつたことを言いたい。朝めしは麦めしと塩の味噌汁と沢庵の尻つぽが三切れくらいとで出来ていたが、その沢庵が消えた。私は刑務所の収入五百万円にたいして沢庵の尻つぽ代を勘定してみたが出なかつた。朝めしの沢庵の尻つぽを復活させてもらいたい。それから冬は熱い湯を飲めるようにしてもらいたい。それから飯やお菜の中から藁、砂、小石、ガラス、瀬戸物のかけら、木くずや竹のそげ、針金、ブリキ板を取りのけてもらいたい。私は歯が悪くひどく悩まされた。あのブリキ板を噛んだときは――二分平方くらいのものだつたが、そして舌を噛んだことのある人なら、人間が知らずにどれほど強く噛むものか知つているだろう。――私は悲しかつた。私は、藁や砂ならしかたがないというのではない。しかし針金やブリキはまつぴらと言いたい。

河上肇

自叙伝(三)

走馬灯に現れる絵姿の中には、こんなものがあった。それは私が中野警察署にいた時、留置中の一人の女学生が母親と面会した折の光景である。
手記を書くために特別高等課の事務室へ呼び出されていた私は、自分の側で問答しているこれらの母子を見た。もう五十にも近かろうかと思われる、小さな、気の弱そうな、やつれたお母さんは、ハンカチの包みから寿司の折詰を出して、食べさせようとしているのに、母親に愚痴をこぼされて悲しくなった女学生は、――お母さんに似てやはり背の低い十七、八の少女だったが、――遣瀬やるせない涙を眼頭めがしらにためて、寿司の方へは手を出そうともしなかった。「悪いことをしたとはとは私は今でも思っていませんの。」そういうかすかな声が私の耳朶じだを打った。恐らく食うものも食わず、着るものも着ずに、お母さんの手一つで育てて来た一人娘が、卒業間際にこんな所へぶち込まれ、放校でもされるようになったら、多年にわたるお母さんの美しい夢は、石の上に落ちた硝子瓶ガラスびんのように、こなごなに砕かれてしまうだろう。今その取返しのつかない運命の前にたたずんで、老いたる母と年若い娘とが、別々の悲しみに思い沈んでいる有様の、何というあわれさであろう。そんな風な想像をして、私は不覚にも涙を落とさんばかりの気持になっていた。その時私の素性を知っている母親は、私の方を向いて
「先生方が悪いのですよ。お宅のお嬢さんなんかは何をなすっても親孝行になるんでしょうが、その真似をしてくれては、私どもの所では困ってしまうのです。」とうらめしげに愚痴をこぼした。何とかいって母なる人を慰めたいと思ったが、役人たちの前で即座に適当な言葉も思付かず、私はただ苦笑してんだだけだったが、しかしとがめるような母親の言葉は、のどにささった魚の骨のように、いつまでも心を刺戟した。

著名な受刑者

受刑者

入獄時期

略歴

大杉栄

(明治18〜大正12)

大正8年12月〜9年3月

香川県生まれ。軍人の家庭に育つ。東京外語大仏語科卒。無政府主義者。在学中幸徳秋水、堺利彦らの平民社に加わり、卒業後、電車賃値上反対運動、筆禍事件、屋上演説事件、赤旗事件などの社会運動に奔走して数回入獄した。大正元年荒畑寒村と「近代思想」ついで「平民新聞」を発刊。大正3年「労働運動」を発刊。堺利彦の義妹堀保子と結婚していたが、神近市子、さらに伊藤野枝と結ばれ、この関係のもつれから大正5年に神近の大杉刺傷事件が起きる。関東大震災の混乱の中で妻伊藤野枝と幼い甥とともに憲兵甘粕大尉に殺害された。著書に「獄中記」、「自叙伝」などがある。

荒畑寒村

(明治20〜昭和56)

大正15年3月〜5月

神奈川県横浜生まれ。明治41年赤旗事件で入獄。大正元年大杉栄と「近代思想」を発刊。大正11年共産党結成に参加し、翌年モスクワに潜入。昭和12年人民戦線事件に連座する。戦後社会党結成。戦後社会党結成に参加、昭和21年に衆議院議員に当選。23年に社会党離党後、評論活動に入った。著書に「寒村自伝」、「谷中村滅亡史」がある。

亀井勝一郎

(明治40〜昭和41)

昭和3年〜5年

北海道函館生まれ。東京帝大美術科中退。昭和3年3.15事件で検挙、獄中転向後、昭和10年同人誌「日本浪漫派」を創刊。以後日本の伝統の中に自己と民族の再生の道を求める。著書に「大和古寺風物誌」、「愛の無常について」などがある。

小林多喜二

(明治36〜昭和8)

昭和5年8月〜6年1月

秋田県生まれ。4歳のとき北海道に移住。小樽高商を卒業。在学中より軍教反対運動に加わる一方、小説も書きはじめる。昭和4年に発表した「蟹工船」で作家としての地位を確立。だが銀行(拓銀)はクビになり、上京し中野に下宿。峻烈なプロレタリア作家として有名。築地署の特高に逮捕され、拷問を受けて死亡。著書に「党生活者」、「不在地主」、「工場細胞」など多数。

中野重治

(明治35〜昭和54)

昭和5年7月〜5年12月
昭和7年〜9年5月

福井県生まれ。東京帝大独文科卒。在学中より室生犀星に親しみ、大正15年堀辰雄らと「驢馬ろば」を創刊。のち「中野重治詩集」に収められる詩や評論を発表。同時にプロレタリア文学運動に参加、昭和3年ナップの創立に加わる。昭和7年検挙され転向。また当時の政治至上主義に対し、「芸術に政治的価値なんてものはない」と批判。政治と文学との対立葛藤が終生の課題となる。戦後は新日本文学会の結成に尽力。昭和22年から25年参議院議員。

埴谷雄高はにやゆたか

(明治44〜平成9)

昭和7年5月〜8年11月
昭和16年12月9日〜12月末

台湾生まれ。日大予科中退。アナーキズムからマルクス主義へ移り、昭和6年共産党に入党したが、検挙され転向した。カントとドストエフスキーに大きな影響を受ける。昭和21年荒正人あらまさひと、平野謙らと「近代文学」を創刊。著書に「死霊」「闇のなかの黒い馬」などがある。

河上肇

(明治12〜昭和21)

昭和8年1月27日〜12年6月12日
(3年9ヶ月の最初の5ヶ月)

山口県生まれ。東京帝大政治学科卒。学生時代から資本主義社会の利己と利他の矛盾に悩み、伊藤正信の宗教集団「無我苑」に入る。明治39年「無我苑」を出て読売新聞記者となる。明治41年京都帝大法科講師となる。大正2年から4年にヨーロッパ留学、帰国後教授。大正5年「大阪朝日新聞」に「貧乏物語」を連載。昭和3年京都帝大教授を辞任。昭和4年新労農党結成に参加。昭和7年地下に潜り共産党に入党。昭和8年逮捕され12年刑期満了。昭和21年自宅にて死去。著書に「経済学大綱」「自叙伝」「獄中日記」などある。

三木清

(明治30〜昭和20)

昭和5年7月〜11月8日
昭和20年6月20日〜9月26日
(獄死)

兵庫県生まれ。京都帝大卒。西田幾太郎に師事。大正11年ドイツ留学。、リッケルト、ハイデッガーの教えを受ける。パリ滞在を経て、14年帰国。三高講師、昭和2年法政大教授。昭和5年治安維持法違反で検挙され、教職を失い著作活動に入る。昭和20年3月再検挙され獄死した。著書に「歴史哲学」「哲学入門」などがある。

藤本敏夫

(昭和19〜平成14)

昭和47年4月21日〜49年9月6日
(2年5ヶ月の最初の3ヶ月)
兵庫県生まれ。同志社大学文学部新聞学科中退。1968年7月同志社大学在学中に中核派、社学同、社青同開放派からなる三派全学連委員長に就任。1972年5月、投獄中に加藤登紀子と獄中結婚。服役中、食と農の問題を一生の課題と思い定めた。1976年3月、「大地を守る会」会長に就任。1981年、千葉県に自然生態農場「鴨川自然王国」を設立。