倭人伝を読みなおす 森浩一著
2009年11月、奈良県桜井市の纏向遺跡で宮殿とみられる建物の跡が発掘され、女王国卑弥呼の宮殿と強弁され、邪馬台国はヤマト説で決まったかのような印象を人々にあたえた。崇神天皇の宮は磯城の瑞(水)垣宮、垂仁天皇の宮は纏向宮とか珠城(たまき)宮といい、景行天皇の宮は『記』では纏向の日代(ひしろ)宮である。纏向は磯城のなかの小範囲の地名である。考古学的にみて三世紀後半から四世紀前半と推定される宮殿のものと推測できる建物遺構が纏向の地で発掘されたとなると、第一に学者の頭に浮かぶはずのことは記紀ともに記している崇神・垂仁・景行の三天皇の宮に関係しているのではないかということであろう。三世紀後半から四世紀前半の幅のなかといったのは、考古学の年代の出し方では普通のことである。それを三世紀前半だけに絞って強弁するのは学問の進め方としては異常である。こんな状況だから、原点である倭人伝の問題点をじっくり検討しておこうというのがこの本を書いた動機である。
魏、呉、蜀の三国の歴史を書いたのが『三国志』である。その中の魏書の一部が倭人伝である。陳寿(233〜297)は265年に魏に代わって晋が建国されてから『三国志』を書き上げた。『三国志』は三世紀の約60年間のことを書いた歴史書で、著者の陳寿も三世紀に生きた人によって書かれている。陳寿は倭国伝とか倭伝としないで、倭人伝としたのであろうか。卑弥呼は景初三年(239)に魏の都洛陽に使節団を送り、魏の皇帝が卑弥呼にあたえた詔書には、「親魏倭王」として金印を授けるとしている。詔書のような魏で作った公の文書では倭国王ではなく倭王を使っている。つまり、卑弥呼は倭王であったが倭国王ではなく、この点に倭人伝を描いた時代の政治的な問題がよくあらわれている。男王が治める狗奴国をも含めたときに倭国とよべるのだと陳寿は考えたのであり、魏の基本的方針でもあった。卑弥呼の時代の女王国は、福岡県と佐賀県のかなりの部分、それに長崎県の対馬と壱岐に及ぶ範囲だったのである。中部九州には男王の君臨する狗奴国があった。狗奴国の後の姿が記紀での熊襲(くまそ)だとみている。倭人伝は狗奴国の南限については語っていないがその領域は熊本県の南半分であろう。南九州の鹿児島県や宮崎県にどの程度及んでいたかは倭人伝の記述からはわからない。
魏は周辺地域の安定のために九州島を一つの倭国として掌握したかったのだが、北の女王国とその南にある狗奴国とが対立し、魏の正始四年(243)ごろから戦争を開始した。それにともない張政らが派遣された。この戦争の様子は逐一帯方郡に報告されたとみられるが、どちらが勝ったか負けたかについては倭人伝には一度も記していない。張政は軍政官というより両国の対立を解消させ一つの倭国になるように努力した節がある。このように分裂した倭人の土地を陳寿は書くのだから、倭国伝とすることができず、倭人伝にするほかなかったのであろう。
景初三年(239)に卑弥呼が魏に派遣した使節団の大使は難升米だった。難升米はのちに女王国が狗奴国との戦いを始めると、正始六年(245)に魏の皇帝は詔を出し、難升米に黄幢(こうどう)を賜うことになり、帯方郡を介して送ってきた。黄幢はのぼりで、皇帝が部下に権限を与えたしるしである。ではどうして黄幢を卑弥呼ではなく、難升米に与えたのであろうか。魏はこの頃には卑弥呼を見限っていたようである。難升米は儺(な)の升米か奴(な)の升米であったとみてよかろう。奴国の王または王族だと推定される難升米が魏との外交で大使をつとめ、さらに女王国と狗奴国との戦いで大きな役割を果たした背景には、奴国が多くの戦士をもっており、さらに武器などの製作が盛んだったことによるとみられる。奴国は女王国全体でも強力な軍事力をもっていたのであろう。奴国は一世紀の中ごろに単独で後漢に使者を送るほどの大国だった。倭人伝に記されている奴国はそれより二百年ほど後の姿で、人口は二万戸あって北部九州の女王国を構成する国々のなかでは抜きんでた大国だった。
「南、投馬国(とう(つ)まこく)へ至る。水行二十日」とその「南、邪馬台国に至る。女王の都、水行十日、陸行一月」の出発点を不弥国(うみこく)ではなく帯方郡とすると投馬国と邪馬台国は北部九州の南あたりに比定できる。投馬国と邪馬台国の記述は、卑弥呼の死後、女王台与が晋へ遣使したときにもたらされた新しい情報を陳寿が倭人伝の編述にさいして挿入したと考える。この個所の知識は倭人がもたらした情報と推測される。そのことは戸数の表し方にもうかがえる。対馬国では「有千余戸」となり、一支国から不弥国までの国々の戸数も「有る」と断定していた。ところが投馬国では「可5万余戸」、つまりあるべしと推量の戸数であり、邪馬台国も「可七万余戸」と玄界灘諸国とは表現を変えている。可は副詞では「ばかり」と曖昧さのある語である。「有」と「可」の違いは著述者としての陳寿の良心のあらわれであろう。
熊本市の南を流れる白川か緑川までが女王国の領域で、それより南の熊本県南部が男王の支配する狗奴国とみている。「男子を王と為す。その官に狗古智卑狗(くこちひく)あり、女王に属さず」とある。男子の王の名は示しておらず、官の狗古智卑狗(くこちひく)の名だけが記されている。狗奴国でも王よりも官の狗古智卑狗の役割と力が大きくこのような記述になったのであろう。もし帯方郡が一方的に女王国を支援していたのであれば、狗奴国との交渉はなくその国の詳しい情報を知るはずはないが実際はそうではなかった。女王国と狗奴国の戦いが始まってからの倭人伝には、勝敗について書かれていない。帯方郡では狗奴国とも外交関係をもっていたとみられる。女王国の大夫の難升米が自ら帯方郡をへて魏の洛陽まで行ったように、狗奴国からも帯方郡への使者を派遣し、そのときの使者が狗古智卑狗であり、それによって帯方郡にまで名が知られるようになったと推定する。また、狗奴国は東シナ海航路があったから狗奴国の位置が「会稽東治の東に当たる」という知識が中国に伝えられたのであろう。
卑弥呼は正始八年(247)かその翌年に死んだ。卑弥呼の死は自然死ではなく、倭国を分裂させた責任をとらされての自死とみられる。そのあと中部九州の狗奴国の力が北部九州に及んだとみられる。狗奴国王とみられる男王が倭国王になると元の女王国に属していた国々が不服を唱え相誅殺し千余人が命を落とした。張政らは台与(とよ)を立てることに力を貸した。卑弥呼を死に至らせたのも、台与を王に立てたのも張政だった。魏の意向を前提にして張政の倭国対策は、狗奴国と女王国とを一つにまとめて倭国とすることにあった節がある。 このような安定した倭国にするために、元の女王国の主力を東方の地であるヤマトへ遷すことが実行されたのが北部九州勢力の東遷であった。東遷の推進者が張政である。それは卑弥呼の死のあとの狗奴国の男王の時代か、男王が立ったための混乱期がおさまり、台与が晋に遣使する泰始二年(266)までの間、つまり250年代の可能性が高い。台与はヤマトに都を遷すことで政治的な安定と倭国の支配に集中できた。
「語っておきたい古代史」 | 森浩一著 |
「日本の古代国家」 | 水野祐著 |