そして日本経済が世界の希望になる     ポール・クルーグマン著 山形浩生監修・解説 大野和基訳

 ポール・クルーグマンは2008年にノーベル経済学賞を受賞した経済学者だ。近年のクルーグマンは、不況の経済学、とくに「流動性の罠」のもとにある不況の経済学の研究を進めてきた。

 アベノミクスという政策実験は、「モデルとしての日本をどのように世界に示せるか」という、経済の未来を占ううえで決定的な重要な役割を担っている。黒田日銀総裁の掲げる「今後二年間で2パーセントのインフレ率」という目標が達成されたとき、日本経済の目前には、どのような世界が広がっているだろうか。アベノミクスは、日本経済を未知の領域に連れていこうとしている。

 財政については、2パーセントのインフレ目標が達成されれば、目下の問題はかなり好転する。インフレ期待が長期金利の上昇を上回る、つまり実質金利が下がればよい、という考え方だ。もちろん利払いはある程度増えるだろうが、名目GDPの成長率が上がることで、最終的にGDPに対する国の債務比率を下げることが可能だからだ。そうしたかたちになれば、財政出動策も不要になる。あまり早く財政再建を始めることはよい結果をもたらさない。まずは、2パーセントのインフレを達成することを第一に考えるべきであろう。日本国債の金利は、短期金利の見通しに基づいておおむね決まる。その短期金利は日銀が決める。だから人びとが短期金利が上昇する、と予想しない限り長期金利は上がらないし、その短期金利の上昇も、景気が回復しないかぎりは起きない。

 貿易赤字についてはどうか。いまの日本は「貿易黒字国」というイメージとは異なって、貿易赤字が基調になりつつある。貿易赤字だけでなく、経常赤字の足音が忍び寄っている、という人もいるようだ。2パーセントのインフレになれば金利が高くなる。おそらく日本国債の名目金利は1パーセント以上になるだろう。しかし、インフレ率は2パーセントだから、実質金利はマイナスになる。貨幣の価値が下がった結果、円安がさらに進む。そうした状況が実現したとき、貿易収支もまた黒字化に向かうだろう。円安は国際収支を改善し、国内の雇用を増やし、人びとの収入増加をもたらす。需要に何重ものプラス影響を与えるのだ。

 2パーセントのインフレ目標達成が最優先である。先進国では、インフレ率はそう急には動かない。かなり好況でなければ物価が年に1ポイント上がることはないが、かといって、到達できない数値でもない。日本の景気がよくなれば、2パーセントではなく、もう2〜3パーセント高めのインフレでもよいのではないか、という議論が出てくるはずだ。筆者は、日本のインフレ率は4パーセントがベストだと考えている。いますぐ4パーセントのインフレ目標を提示することが政治的に不可能であるなら、まずは2パーセントという数字は妥当だ。しばらく様子をみたうえで、さらに大きな数字を主張する、といったかたちでもよいだろう。

 金融緩和には、大きく分ければ二つの成功条件がある。第一条件は、人びとがもつ将来への期待を変えることである。これはさらに二つに分類される。まずは、国家の経済は将来的に落ち込まない、と人びとが信じること。その時点でマネーストック(金融機関から経済全体に供給される通貨の総量)の増加がインフレを誘発するという、望ましい状況がもたらされる。もう一つは中央銀行が実際に、その金融緩和を実現に移す、と信じられること。たとえその国で完全雇用が達成されたとしても、中央銀行はマネタリーベースを増やしつづける、とみなされることだ。それが現実のインフレを引き起こす。もし将来、インフレが到来すると人びとが信じれば、お金の使い方にも変化が生まれてくる。

 第二条件は第一条件よりも重要ではないが、短期金利がゼロであること。長期金利が0.9パーセントくらいなら、民間部門の借入金利は政府部門よりも高くなる。そこで中央銀行が長期国債を買えば、長期金利の上昇を抑制し、民間部門の返済負担を軽減できるだろう。

 金融緩和によって名目金利が一定に抑えられている環境のなかで、期待インフレ率が上がれば実質金利は下がる。そこで投資を行いやすい環境が生み出され、景気が刺激されることになる。そして国民が、1パーセントではなく2パーセントのインフレが訪れる、と確信すれば手元の資産は目減りが予想されるので、さらにお金を使う理由が生まれる。同時にそのインフレによって日本の国家債務も減少し、国民負担も軽減する。

 アベノミクスがうまくいくなら、それは日本にとって不可欠な成長の押し上げをもたらし、その他の世界には政策の無気力さに対して必要な解毒剤を与える。この政策実験がうまくいけば、まさに日本は世界各国のロールモデル(お手本)になることができる。アベノミクスによってほんとうにデフレから脱却できるなら、それは将来同じ状況に陥った国に対しても、大きな示唆になるからだ。日本の成功は自国のみならず、世界経済にとっても、大きな貢献になりうる。


クルーグマン教授の<ニッポン>経済入門