クルーグマン教授の<ニッポン>経済入門
                       ポール・クルーグマン著 ラルス・E・O・スヴェンソン著 山形浩生編訳解説

 いまの日本は不景気だ。みんな、お金を使わずに貯金ばかりしている。だから、本当なら金利を下げて景気をよくしたい。ところが困ったことに、いまの日本の金利はほとんどゼロだ。金利はマイナスにはできない。だから、いまの日本では金利を下げて景気を刺激することはできない。もし金利をマイナスにできたら、みんないまよりお金を使うようになるだろう。そして景気も回復するだろう。名目の金利がゼロのままでも、実質的な金利を下げる方法がある。みんなに、貯金をするよりもお金を使うほうが魅力的だ、使わないとお金の価値が目減りする、と思わせる方法がある。インフレ期待を起こすことだ。そうすれば、日本は10年にわたる長い不況から脱出することができるはずだ。これがクルーグマンの提案した調整インフレ論だ。

 流動性の罠は、名目金利がゼロまたはゼロ近くになったために、伝統的な金融政策が不能になった状態だ。金利がゼロでも人がお金を使いたがらず、景気刺激のための金利引下げがそれ以上できなくなってしまう状態だ。こうなると、経済にマネタリ・ベース(日本銀行が供給する通貨のこと)を注入しても効果はない。いまや日本が流動性の罠にはまっていることはほとんどの人が認めているように思う。

 流動性の罠のもとでは、通常の不景気対策は有効ではない。中央銀行(日銀)がお金を刷って金融拡大しても金利がゼロなので、刷ったお金の行き場がなく、現金があちこちに貯め込まれるだけで景気の刺激にはならない。また、公共事業や減税による財政拡大に基づく回復戦略は、その刺激を長期にわたって続ける必要がある。日本の長期的な財政状況はいささか不安なものなので、毎年のように巨大な財政赤字を続けてなんとか経済を上向かせるというのでは困ってしまう。日本の財政出動は限界に近づいてきている。

 流動性の罠から抜け出すための対策の本命は、インフレ期待を盛り上げろという話になる。将来は物価がもっと高くなると思えば、みんな今のうちに投資しよう、モノを買おうと思うだろう。将来ずっと(少なくとも10年)は、インフレが続くとみんなに思わせる必要がある。それさえできれば、流動性の罠から脱出できる。日本に必要なのは管理されたインフレだ。

 インフレは一回起こしてしまうと制御が効かなくなり、ハイパーインフレになるから調整インフレなんかとんでもない、という議論が存在している。ただ、一般的な条件下ですぐハイパーインフレが発生するというものではない。この世の中にはインフレ率が高めの国はいくつかあるけど、ハイパーインフレに突入する国なんかそうそうない。外貨建ての債務があって、それを返すためにお金をいっぱい刷って、するとその分為替レートが下がって、次の返済のためにさらにお金をいっぱい刷る必要が出てきて、といった悪循環に陥ってハイパーインフレっぽくなる国はあるけれど、日本はそういう状況とはほど遠い。現実に日本がハイパーインフレを迎える可能性はかなり低そうだ。日本の経済はいま、かなりひどい状況にある。そこから抜け出す見込みがかなり高そうで、そうなったらそれがもたらす利益は国民全体、いや世界全体にとって膨大なものだ。一方、ハイパーインフレの可能性はきわめて小さそうだ。そんなわずかな可能性のために、予想されるメリットを捨て去ることは、正当化されるだろうか。