新説!日本人と日本語の起源     安本美典著

 現在、日本人起源論のもっともポピュラーな説は人類学者、埴原和郎氏の『二重構造説』である。計量言語学者の筆者は、『二重構造説』のアイヌや縄文人の主流が南方系であるという仮説や弥生文化が北から来たという仮説に疑問点にあげ、日本人の起源に異説をとなえている。筆者の見解では、日本海の北回りで大陸とつながるような環日本海人の子孫が、縄文時代人の大多数であり、さらにそのおもなる子孫がアイヌとみられる。日本海の南回りで大陸とつながるような環日本海人が、縄文時代に南朝鮮、対馬、壱岐、北九州などにいた。この人たちが、長江下流域からの水田稲作や文化などを積極的にとりいれ弥生文化を成立させた。

日本語の成立

およそ1万〜2万年前には「古極東アジア語」(日本語、朝鮮語、アイヌ語)の行われた地域は、日本海を内海としてかこみ、地つづきであった。日本海も結氷のため、わたりやすい部分が多かったであろう。そのころは、「古極東アジア語」は、環日本海語として、あるていどの統一性をもっていた可能性も大きい。

その後、日本列島が大陸から離れるにつれて、古日本語(日本基語)、古朝鮮語、古アイヌ語は、船による人の移動などで、たがいに接触をつづけながらも、しだいに方言化し、さらには、異なる言語となっていった。

古日本語(日本基語)の系統をひく言語は、その後、稲作の渡来などとともに、長江(揚子江)下流域からのビルマ系言語などの影響をうけ、倭人語(日本祖語)が成立する。倭人は朝鮮半島南部、対馬、壱岐、北九州に分布していた。

その後、朝鮮半島南部にいた倭人は、朝鮮半島からしだいにおし出された。そして、倭人語が、日本列島を言語的に統一していった。統一の過程で、古くから日本列島に存在していたインドネシア系言語などの語彙もとりいれていった。

さらに、歴史時代にはいって、語彙的に中国語の大きな影響をうけながら、現代日本語を形成するようになった。

弥生文化と国家の起源

いまから、2500年ほどまえに、あらたな稲作技術が、長江下流方面から北部九州に伝わってくる。水田稲作の技術だけでなく、文化としての複合体をもつものが伝わってきた。文化としては、金属器をもっていた。収穫を略奪されることをふせぐため環濠集落がつくられた。新しい形式の高床式住居をもっていた。新しい形式の祭祀をもっていた。また、租税をとることを行う国家が出現し、階級社会が生みだされる。

北九州を中心とする地域に、3世紀ごろ邪馬台国が成立した。邪馬台国勢力は、出雲地方に、南九州に、そして近畿へと勢力を伸張させた。やがて邪馬台国後継勢力が、畿内(大和)に大和朝廷をたてた。大和朝廷は、さらに東へと勢力をのばしつづけた。

朝鮮半島南部にいた倭人は、562年の任那の滅亡、663年「白村江の戦い」での敗北を経て、結局、海の外においだされた。朝鮮半島は新羅による統一などで朝鮮語化された。