日本人の起源

日本人はどこから来たか

100万年前獲物を追ってアフリカの地を出た原人はジャワ原人や北京原人となってアジアの地まで到達した。氷河期には海面が現在より100m低下し大陸と日本は陸続きだった。大陸から日本に来た獲物を追って原人も日本に来た。原人段階の遺跡は日本で発見されているが人骨はまだ見つかっていない。土壌が酸性のため骨を溶かしてしまうからである。人骨が発見される場所は石灰岩の洞窟、貝塚、砂浜と限られる。遺跡の数から一万人ぐらいの人口と推定されているが現在の日本人の直接の祖先である保証はない。
20万年前アフリカの地を出た新人が5〜7万年前に中国に達し日本には3万〜1万2千年前までの間に段続的に流入したが、それ以後、大規模な渡来がなかったので原日本人はこの間に形成されたといえる。

三ルート渡来説

後期旧石器人の渡来ルートを1981年に鈴木尚ひさし東大教授によって提唱された。
(1)奄美以南の南洋諸島には「華南・東南アジア方面」から何回かの渡来があった。
(2)「華北方面」から石刃技法とナイフ形石器をもたらしたのは朝鮮半島から西日本へ渡来した一団で、彼らはやがて東日本にも広がった。
(3)北海道・関東以北の一帯へはシベリア起源の細石器群で特徴づけられる北方集団が「沿海州方面」から南下し、先住の華北系集団と融合する。

日本人の二重構造モデル

1990年の国際日本文化研究センターが開催した国際シンポジウムで埴原和郎はにはらかずろう氏によって発表された。
(1)旧石器時代の港川人と縄文人は、古く東南アジアに住んでいた原アジア人の系統に属し、縄文人はほぼ均質の集団だったとみなすことができる。
(2)渡来系弥生人は寒冷適応を遂げた北アジア人の系統に属し、日本列島で縄文系集団と共存・混血するようになった。
(3)北アジア系の渡来は弥生時代、古墳時代を経て初期歴史時代まで続き、日本列島における二重構造が明瞭になってきた。とくに古墳時代以後は、東日本(縄文系)と西日本(渡来系)の差が明瞭になった。
(4)アイヌと沖縄の集団は渡来系集団の影響を受けることがきわめて少ないか、またほとんどなく、縄文系集団がそのまま小進化したものと思われる。
(5)現代の日本および日本文化にみられる地域性は、縄文系の伝統と渡来系の伝統との接触の程度が異なることから生じ、時代が下るにしたがって種々の地域的要因(たとえば気候、国内の移動、政治的影響など)が付加されることによって現在の状況が作られてきたと思われる。

縄文人と弥生人

 

縄文人

弥生人

時代

1万年前〜2千3百年前

紀元前3世紀〜紀元後3世紀

身体の特徴

平均身長:160cm以下 四画顔(南方系)
手足が長い(土蜘蛛、長髄彦)、毛深い

平均身長:160cm以上 面長(北方系)
顔が平坦、胴が太く長い、眼が細い、鼻が低い

食料

ドングリをアク抜きして保存食とした

水田稲作

人口

早期:2万人  前期:10万6千人
中期:26万人 後期:16万人
晩期:7万5千人

60万人

分布

関東、中部、東北の東日本が中心

北九州から近畿にかけての西日本が中心

道具

黒曜石、サヌカイト、硬玉、アスファルト

鉄器、青銅器

世の中

平和

戦乱の世、大陸からの渡来人の流入

旧石器時代の遺跡と人骨

後期旧石器 1万3千年前〜3万年前   中期旧石器 3万年前〜13万年前   前期旧石器  13万年前〜

時代

発見年

遺跡または人骨名

説明

年代未確定

1931年

明石原人

直良信夫が明石市西八木海岸でみつけた人類の腰骨が化石化したと認識した。この骨を東京の空襲で焼失してしまったが、石膏模型が残されていた。戦後、この模型に注目した長谷部言人ことんど東京大学教授によって、明石原人の通称が与えられた。その後、明石原人は原人ではなく旧人段階の化石だったとする分析や、現代人だとする見解も出て、論争は二転三転する。

後期旧石器

1949年

岩宿遺跡

相沢忠洋は、群馬県岩宿の関東ローム層の露出している赤土の中から黒曜石で作られた石器を採集した。そのころの日本の考古学者の常識では、この地層は縄文文化最古の遺物を含む地層よりはるかに古く、人類遺物の存在するはずがないとされていた。相沢氏の発見を見て事の重大さに気づいた芹沢長介氏は、当時所属していた明治大学考古学研究室の杉原壮介助教授にこれを報告、正式に発掘調査されることになった。この調査の結果、日本でも縄文時代以前の更新世に人が住み、石器の組み合わせと製作技法によって分類できる、いくつかの段階があることを明確にした。 

年代測定不能 

1950年

葛生原人

直良なおら信夫が栃木県安蘇郡葛生くずう町の石灰岩採石場から発見された上膊骨、大腿骨、下顎の報告をした。
1950年に直良信夫氏により栃木県葛生町の石灰岩洞くつから発見され、旧石器時代の人骨とみられていた大腿骨な どの年代が、お茶の水女子大学生活科学部の松浦秀治助教授らの年代測定の結果、縄文時代以後のもので、一部は 中世以降のものである可能性が高いことがわかった。(2001年7月11日

弥生

1953年

土井ヶ浜人

金関丈夫かなせきたけお九州大学教授は山口県土井ヶ浜の砂浜に埋もれていた弥生時代人骨総計207体を発掘した。弥生人は平均身長が約163cmと高く、顔は扁平で長い(高顔)ことが明らかになり、これらの弥生人は朝鮮半島からの渡来人と土着の縄文人の子孫の混血であろうと考えた。

中期旧石器

 

1957年

牛川人

豊橋市牛川町の石灰岩採石場より出土した女性の左上腕骨が発見されたことが鈴木尚ひさしによって報告された。現在日本で発見されている人骨では最古である。この人骨の推定身長は135cmほどで小柄である。

後期旧石器
1万年前

1959年

三ケ日人

静岡県引佐いさな郡三ケ日町の石灰岩採石場より出土した頭骨片や骨盤はホモ・サピエンスに属し、身長150cm前後で縄文人の前頭骨の強い隆起線とよく似た特徴があると鈴木尚ひさしが報告した。
1959年から61年にかけて静岡県三ヶ日町の石灰岩採石場で発見された人骨の破片は、一緒にみつかった動物の 骨から旧石器時代の人骨と考えられていたが、お茶の水女子大学生活科学部の松浦秀治助教授らによる放射性 炭素法による年代測定をしたところ、約7500〜9500年前(縄文時代早期)のものであるという結果が出た。(2001年9月7日)

後期旧石器
1万年前 

1961年

浜北人

静岡県浜北市根堅ねかたの石灰岩採石場からでた各種の骨は低頭、低身型で縄文人的特徴をもつと鈴木尚ひさしが報告した。静岡県浜北市で1960-62年に発掘された「浜北人」の骨が約1万4000年前の旧 石器時代のものであることが、お茶の水女子大の近藤助手、松浦教授らによる骨を放 射性炭素年代測定法により確認された。(2002年9月14日  

後期旧石器
1万4千年前

1962年

聖岳人

大分県南海部郡本匠村の聖岳洞窟から一万四千年前の後頭部の骨が発見された。日本旧石器人の中で唯一この人骨だけが旧石器を伴って発見されている。小片丘彦おがたたかひこ鹿児島大学教授によると、厚く頑丈で後頭部が突出する特徴は中国北部の上洞じょうどう人に似ているという。
2000年8月28日の新聞各紙やTVなどで、大分県聖嶽洞穴で1999年12月調査、発掘された人骨が当初の発表された旧石器時代のものではないと報道された。

中期旧石器

1964年

早水台遺跡

大分県速見郡日出ひじ町で、芹沢長介氏らによって石英脈製の石器類が発見された。研究の結果、これらの石器は、チョッパー(片刃の礫れき器)、チョッピングツール(両刃の礫れき器)、ハンドアックス(握斧あくふ)など古い様相を示す石器が主体をなしており、十〜十二万年前のものと推定された。

後期旧石器
3万2千年前

1968年

山下町洞人

那覇市の山下町の洞穴から7歳くらいの子供の大腿骨と脛骨の破片が発見された。日本で発見された人骨で最古のものである。

後期旧石器

1969年

夜見ケ浜人

鳥取県境港市外江とのえの砂浜で錦織文英氏が下顎骨の左半分の破片を発見した。中国地方で、唯一の旧石器人化石である。

後期旧石器
1万8千年前

1970年 

港川人 

那覇市の実業化・大山盛保は、沖縄本島南部具志頭ぐしかみ村の港川採石場の石灰岩の割れ目から、九体の人骨化石を発見した。そのうち四体は全身の骨がよく整って出土し保存の完全さという点では、日本で唯一初めて旧石器時代の人骨である。鎖骨と上腕骨は細くて短いので、肩や腕の力は弱かったが、脛の骨は太く、足も頑丈なのでふくらはぎの筋肉はきわめて強力だったと推定される。狩猟採集生活をするのに適した体である。当時の中国南部の柳江人りゅうこうじんによく似ている。

中期旧石器

1976年

座散乱木ざざらぎ 遺跡

宮城県岩出山町で、東北歴史資料館と石器文化談話会によって発掘調査された。地表から16層まで発掘されているが、このうち15層上面までに八枚の文化層が確認された。また、第12層以下の三枚の文化層は、明らかに三万年前より古く日本中期旧石器時代の存在を広く一般に認めさせた遺跡である。 

後期旧石器
2万6千年前

1979年

ピンザアブ人

 

沖縄県宮古島の洞穴から頭骨、四肢骨、歯などの一部が発見された。国立科学博物館の佐倉朔はじめ氏によると港川人によくにているが、さらに古い特徴も見られる。

前期旧石器
14万年前

1984年

馬場壇遺跡

宮城県古川市にA、B、C,Dの地点名のついた四遺跡がある。特に重要なのはA地点のものである。東北歴史資料館と石器文化談話会によって発掘調査された。石器類が層準をちがえて出土する重層遺跡である。とくに20層以下の石器は、玉髄や碧玉が使用され、小型の剥片の周囲を書こうした尖頭器や錐、きりだしナイフ状石器などが知られている。これらの石器は14万年前の地層から出土している。20層でキャンプ跡を検出し、火を焚いた形跡のあること、石器にナウマン象の脂肪酸が付着していたことが確認された。

前期旧石器
50万年前

1993年

高森遺跡

宮城県築館町の高森遺跡からおよそ50万年前の石器が出土した。

前期旧石器
60万年前

1994年
1998年

上高森遺跡

宮城県築館町の上高森遺跡からおよそ60万年前の石器が出土した。出土した石器にアフリカ起源とされるハンドアックス(握斧)3点とクリーバー(鉈なた状石器)が2点含まれていた。1998年11月に60万年前の地層より10cmほど深い場所で、石器の基になった、めのうの石核せつかくや、尖頭器せんとうきなど13個が出土したと発表があった。

前期旧石器
35万年前

1999年

長尾根遺跡

埼玉県秩父市の長尾根遺跡から、約35万年前の石器3点が出土した。同時代の遺跡は東北地方に数カ所あるが、それ以外の地域での発見は初めてである。出土したのは、動物の肉を切ったり、木を削ったりしたスクレイパーが2点あった。遺跡は荒川左岸の河岸段丘だった丘の上にあり、石器は道路に露出した多摩ローム層からみつかった。原人が日本全土にいたことを証明する発見である。

前期旧石器
50万年前

2000年

小鹿坂おがさか遺跡

埼玉県秩父市の小鹿坂おがさか遺跡から、約50万年前の原人の建物跡とみられる柱の跡のような穴や石器30点(スクレイパーと呼ばれる削器14点、小型両面加工石器7点など)が出土した。ほぼ正五角形に並んだ穴が4メートルほど離れて2組10個ある。標高370メートルの隆起した多摩ロームの軽石層の下にあり、片方が40センチ、もう一方が70センチ間隔で、正五角形のように並んでいた。石器は五角形の穴に囲まれた所から7点ずつ見つかったほか、周辺に9点あった。出土した石器は、関東地方では産出されない、けつ岩や鉄平石でできており、東北地方との交流をうかがわせる。熱で変色している石器もあり、火を使っていたともみられる。

中期旧石器
9万年前
2003年 金取遺跡 岩手県宮守村の金取遺跡は1984年に武田良夫さんによって発見されて、1985年に金取遺跡発掘調査団(団長 菊池強一さん)が本格的な発掘調査を行った。1985年の発掘調査では、中期旧石器時代(約3〜13万年前)のものと考えられる石器が40点が出土した。現在は、捏造の及んでいない中期旧石器時代の遺跡として、注目されている。2003年の調査で石器が出土した最下層は9万―8万年前に九州から北海道まで飛散した「阿蘇4火山灰」であることが判明した。
中期旧石器
9万年〜
10万年前
2003年 入口遺跡 長崎県平戸市山中町の入口遺跡で、約10万年前および9万年前と考えられる二つの地層から、計27点の中期旧石器がみつかった。石器は平戸市が99年から02年の発掘調査で出土した。3bと呼ばれる上層からは、錐(きり)のような用途に使われたと思われる尖頭状石器1点のほか、長辺3センチ程度の台形状剥片(はくへん)石器4点、石器を製作する際に出るチップと呼ばれる石のくずなど24点が出土。下の4層からは、スクレイパー1点と、ハンマーと考えられる石器2点の計3点が出土した。
中期旧石器
12万年前
2009年 砂原遺跡 島根県出雲市多伎市の砂原遺跡で、約12万年前の地層から、旧石器20点が見つかったと、2009年9月29日松藤和人同志社大学教授を団長とする発掘調査団が発表した。
平成21年8月8日、成瀬敏郎・兵庫教育大名誉教授(自然地理学)が海成段丘の斜面の地層から玉髄製石器を発見、松藤教授に調査依頼した。