日本の国境問題 尖閣・竹島・北方領土       孫崎うける

尖閣諸島(中国名:釣魚島)
2010年、尖閣諸島問題は突如緊迫した。一隻の中国漁船が海上保安庁の巡視船に意図的にぶつかった、日本政府は公務執行妨害で裁こうとした、しかし中国の対抗措置にあい釈放した事件である。
この事件の裏には、次の動きがあった。
第一は領有権をめぐる動きである。尖閣諸島は日本も中国も領有権を主張している。しかし、管政権は尖閣諸島を「領有権の問題はそもそも存在しない」とし、尖閣諸島をめぐる動きについては「国内法で粛々と対応する」とした。このことは将来、中国が「国内法で粛々と対応する」道を開いた。双方が国内法で粛々と対応する方針をとれば、武力紛争につながる。
第二に、日中間には尖閣領有権問題は棚上げにするとの暗黙の合意があった。これを管政権は「棚上げ合意は存在していない」という立場をより鮮明にした。
第三に、紛争を避けるため、日中双方は尖閣諸島周辺も含め漁業協定を締結してきた。ここでは不慮の事故を避けるため、「中国の船が違反操業をしている時には日本側は操業中止を呼びかけ、その地域から中国船を退去させる、違反の取り締まりは中国側に通知し、中国側に処理を求める」を主な内容としている。しかし今回、中国漁船の違反に対して日本は日中漁業協定で処理する立場をとらず、国内法で対処した。このことは、尖閣諸島の領有を主張する中国が国内法で処理する道を開いた。

日本は明治18年(1885)以降沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行い、これらの島々が単に無人島であるだけでなく、清国を含むどの国の支配も及んでいないことを慎重に確認した上で、沖縄県に編入を行った。これは”無主の地”を領有する”先占”にあたる。
中国側は一貫して、尖閣諸島は台湾に属しているとの立場をとっている。1951年署名のサンフランシスコ平和条約では「日本は台湾に対する全ての権利、権限及び請求権を放棄する」と規定している。

1969年、中ソ国境衝突を経験している中国側は、領土問題が武力衝突に発展する危険性を察知している。かつ領土問題が数回の交渉で解決するものでないことも知っている。しかし当時、日本は経済力で中国を圧倒していた。そんな日本の経済力を中国の発展に利用したいという思惑もある。これらの事情を背景に、中国側は尖閣諸島問題の「棚上げ」を提案し、日本側がこれに同意する形で日中関係が進展する。周恩来、ケ小平が中国を指導していた時には尖閣諸島のを「棚上げ」にして紛争を避けることが重要だという考えが支配的であった。しかしその考えは中国の中でも次第に弱体化しつつある。今、日本政府は「棚上げ合意はない」との立場を打ち出しているが、本当にそう割り切っていいのか。「棚上げ」合意の廃止こそ中国軍部が望んでいることである。

北方領土
1945年7月26日連合国側(米国、中華民国、英国)は、ポツダム宣言を発表し、日本国政府の無条件降伏を求めた。ここでは日本の主権は本州、北海道、九州、四国と連合国の決定する小島となっている。また、連合国最高司令部訓令(1946年1月)においては、日本の範囲に含まれる地域として「四主要島と対馬諸島、北緯三〇度以北の琉球諸島等を含む約一千の島」とし、「竹島、千島列島、歯舞群島、色丹島等は除く」としている。
日独の敗戦が濃厚になってから、ルーズベルト大統領の最大の関心は「いかに少ない米国の犠牲者の下に日本の無条件降伏を引き出すか」である。この情勢判断はルーズベルト大統領の死後(1945年4月)引き継いだトルーマン大統領もおなじである。従って米国にとってソ連の対日参戦は極めて重要である。ルーズベルト大統領はテヘラン会議(1943年11月)でソ連の対日参戦を要請し、ヤルタ会談で「千島列島がソヴィエト連邦に引き渡されること」の内容を含むヤルタ協定が結ばれた(1945年2月)。ソ連が参戦する見返りに、樺太(南半分)と千島列島という餌をソ連に与えたのである。

サンフランシスコ平和条約(1951年9月8日署名)において、「日本国は千島列島に対するすべての権利、請求権を放棄する」とした。

日本は鳩山一郎政権時代、1956年に一時、歯舞・色丹を手に入れることで領土問題の解決を図ろうとした。米国は日ソが急速に関係を改善することに強い警戒心を持っていた。かつ日ソ間の領土問題を難しくしておくことは、その目的に適うとみていた。

ソ連は「領土問題は解決済み」との立場をとり、日本は「国後島・択捉島は日本固有の領土である」との立場をとり、何ら進展がみられなかった。

北方領土問題は、ポツダム宣言受諾とサンフランシスコ平和条約で大枠が決定している。一方において、米国は冷戦中、日本が米国の戦略からはずれ、ソ連と独自に関係を構築することを望まなかった。ここで、北方領土を利用した。ソ連側が決して日本側に譲ることのない国後・択捉を日本に要求するように求めた。かつ日本国内では「北方領土は日本の固有領土でソ連が不法に占領している」という考え方を広めさせた。それによって日本が独自にソ連との関係改善を行うことを封じ込めた。米国は「日本・ソ連の関係改善に一定の枠をはめる」という目的はがっちり手に入れてきた。

竹島
米国の地名委員会は、1890年大統領令及び1947年法律により設置されている。外国を含め、地名に関する政策を扱う。
竹島は日本名「竹島」、韓国名「独島」、米国名では「リアンクール島」と呼ばれている。リアンクール島の呼び名は、1849年フランス捕鯨船がこの島を発見・命名し、その呼称が国際的に使用されたことにより、米国での公式名称である。
地名委員会によると「竹島」の所属国は大韓民国と表記している。

・2008年7月下旬地名委員会はこれまで竹島を「韓国領」としていたものを「どこの国にも属さない地域」に改めた

・韓国国内では大問題になる。韓国側はブッシュ大統領の韓国訪問の際、議題としてとりあげざるをえないと伝える

・この問題ではブッシュ大統領が関与し、韓国大使との会談でライス国務長官に検討するように指示し、再度「韓国領」に改められた。

・日本国内では一連の動きの過程において、町村官房長官は「アメリカの一機関の動きにいちいち反応する必要がない」と指摘した。

当時の、町村信孝官房長官は重大な過ちを犯した。それは歴史的な過ちと言える。
第一に、これは単に「米国の一機関のやっていること」と決めつけられるような小さな動きではない。ブッシュ大統領、ライス国務長官が関与している。この機関は地名に関し、米国全体を代表して調整する機関である。
第二に、米国がどのように判断するかは竹島の帰属に深刻な影響を与える。米国が竹島を日本領ではなく、韓国領と言えば、それは日本領とはなり得ない。
従って米国地名委員会がいかなる決定をするかは、竹島がどこに帰属するかを決める極めて重要な動きである。


領土問題の平和的解決
各々の国は領土問題において、最大限の支配権の保持することを目指す。従って国際司法裁判所への提訴はほとんど行わない。
日本の領土問題の解決には積極的に国際司法裁判所を利用したらよい。最大限の支配権の保持を失ってまで国際司法裁判所に提訴する目的を次に示す。
第一に、日本の周辺はロシア、中国と軍事的に強力な国家である。法的な根拠以外で解決される場合には、ロシア、中国の武力が強い影響を与える。
第二に、領土問題には、ナショナリズムが強く働く。日本人は当然日本の論理が正しいと思い、中国人は当然自国の論理が正しいと思う。両者の見解はナショナリズムが高まるにつれて、ますます乖離が生じる。国際司法裁判所への付託は国民に冷静さを求める良い機会となる。ナショナリズムに煽られると、各々の国民は自己の正しさを実現するため、公権力の行使を求める。
第三に、何よりも、国際司法裁判所に判断を委ねることにより、武力紛争を回避できる。

ソ連、中国、韓国の国交回復の時には、実質的に領土問題を棚上げして処理してきている。領土問題が障害となり国交回復ができないより、領土問題を棚上げして国交回復した方がはるかによい。
第一に、ソ連との関係で1956年の日ソ共同宣言では、「歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡す」ことに同意した。ただし、これらの諸島は、「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」とされている。まだ国後・択捉問題が残っている。日本は領土問題を棚上げにして国交回復を行ったのでである。
第二に、中国との関係で1972年の中国との日中共同声明で領土問題は棚上げにした。
第三に、韓国との関係で竹島の問題を棚上げにして、日韓の正常化を図った。


参考   日本の国境    山田吉彦著