健康・老化・寿命 人のいのちの文化誌         黒木登志夫著

 村上春樹の『ノルウェイの森』に、ボールド体で書かれた一行がある。「死は生の対極にとしてではなく、その一部として存在している」。同じように、病気は健康の対極ではない。高血糖と低血糖、遺伝子変異と修復、感染と免疫。危ういバランスの上で健康はかろうじてとどまっているに過ぎない。病気は健康の一部として存在しているのだ。病気の悲しい結末である死も、健康の中に内在している。その意味で、健康、老化、寿命は、それぞれ独立に存在するものではない。健康は病気を内包し、若さは老いを内包し、寿命は死を内包している。

健康

 生物にとって、種の保存と並んでもっとも大事なのは、食料の確保である。常に飢餓にさらされてきた生物は、進化の過程でさまざまな安全装置を獲得してきた。たとえば、食糧危機に備えるため、グルカゴン、アドレナリンなど血糖値を高めるホルモンが何重にも用意されている。それに対して、血糖値を下げるホルモンはインスリンのみである。生物の進化のなかで、飽食の時代は想定されていなかったのだ。いま、飽食という新たな栄養失調に直面しているのは、人間と人間に飼われている動物だけである。ミシガン大学のニールは、1962年、いつ飢餓におそわれるか分からない時代には、「体内に効率的に食べ物を貯蓄できないような人は淘汰される」という仮説をたて、その任を負う遺伝子として、「エネルギー倹約遺伝子」を提唱した。「倹約遺伝子」は、過剰エネルギーをせっせと脂肪細胞に蓄える。さらに、飢餓状態にあっても、血糖値が保てるよう、インスリンの分泌量を減らし、エネルギーを無駄に使われないようにする。そうでなければ、食料が保証されない時代にあっては生き残れないからである。倹約遺伝子は、飢餓の時代には生き残るために必要な適応遺伝子であったが、食糧難が解消した今となっては、逆に「不適応遺伝子」となった。摂取したエネルギーを最大限に利用しようとする遺伝子は、飽食の時代には、肥満の原因となる。

生活習慣病の予防法
・タバコをやめる。
・野菜を食べる。塩分をひかえる。カロリーをとりすぎない。
・運動をする。
・毎年、健康診断を受ける。

 老化
 老化ののプロセスは人によって大きく違う。医学の世界でも30年くらい前までは、若いときには才能、体力などが一人一人違っているものの、歳をとるとみな一様になると考えられていた。しかし、今では、人は歳をとるにしたがい一様ではなくなるという考えに変わってきた。その背景には、老人と老化に対する価値観の変化がある。老人と老化をプラス思考でとらえるようになってきたのだ。マイナス面を強調すれば、確かに老人はみな一様に衰えていく。しかし、人は歳とともに個性的になる。これまでの豊かな人生経験がさまざまな形で現れてくる。若さという幸福はみな似かよっているが、老人にはそれぞれの幸せがあり、悲しみがある。歳をとるとは、個人差が広がっていくプロセスといってもよい。

 ヒトはなぜ老化するのであろうか。老化をプログラムし、コントロールしている遺伝子があるのかもしれない。ある年齢になると、老化遺伝子に出番がまわってくる、という考えである。別な考え方は、寿命を保つための遺伝子が、加齢とともに衰えはじめるというメカニズムである。現在の研究成果からは、後者の可能性が高い。

 ユダヤ人の実業家サムエル・ウルフマンは、78歳のとき『青春とは』という詩を書いた。ウルフマンが言うように、「夢をもち」、「勇気と冒険心をもち」、「目を輝かせ」、「感動し」、「子供ののような好奇心をもち」、「胸をときめかせ」、「挑戦する喜び」をもっていれば、80歳でも青春なのだ。

寿命
 ゼロ歳児の平均余命を平均寿命という。平均寿命に大きく影響するのは、子供と若者の死亡率である。100年近く前までは、乳幼児の死亡率が高く、若者は結核で次々に死亡した。それが平均寿命を短くしている大きな要因だった。逆に歳をとってかかるような病気の死亡は平均寿命にそれほど大きな影響を及ぼさない。がんによる死亡がなくなれば、あるいは心臓病で死ななくなれば、平均寿命は大きく伸びると期待しているかもしれない。しかし、がんが克服できたとしても、伸びるのは3〜4年、心疾患、脳血管障害では、1〜2年である。死亡率のほぼ60%を占めるこれら三つの病気がすべて克服されても、平均寿命は8〜9年伸びるに過ぎない。

 寿命が伸びたのは医学だけがその理由ではない。人の命を大事にし、人間としての権利を尊重する考えが社会に全般に行き渡っていなければならない。その上で、健康的な生活を送るために必要な経済基盤が必要であるが、それだけではない。その恩恵を国民全員が等しく受け取ることができることが重要である。

 カロリー摂取を制限すると寿命が延びる。マウス、ラット、イヌなどの哺乳動物でも、通常の食事量を40%程度に抑えたとき、もっとも寿命が伸びることが分かっている。カロリー制限で寿命が伸びるのは、進化論的に考えても納得がいく。生物は常に飢餓にさらされてきた。そのような環境で生き残るためには、カロリーが制限されたときに、寿命を延ばし、条件がよくなったときに子孫を残す。カロリー制限は長い進化の歴史のなかで、種の保全のために重要な役割を果たしてきたであろう。

    平均寿命(男・女)
縄文時代   14(15歳の平均余命16年)
室町時代 14世紀末 24(15〜19歳の平均余命16.8年)
江戸時代 18〜19世紀 35〜41
明治時代 1892年(明治25年) 42.8 44.3
戦後 1947年(昭和22年) 50.1 54.0
平成 2003年(平成15年) 78.6 85.6