継体天皇と朝鮮半島の謎 水谷千秋著
十二年前に著した『謎の大王 継体天皇』は主に筆者の専門である文献史学からアプローチしたものだったが、本書ではできるだけ考古学の成果を取り入れ、これを『記・紀』の語るところと突き合わせ、考え得たことをまとめた。
従来の巨大な前方後円墳のような視覚によって権威・権力を示す段階から、文字に表された氏の名前や、文字化された大王(おおきみ)の系譜や伝承(帝紀)や、文字で先王の業績や人なりを表現した諡号(しごう)などによって権威や権力を示す段階への飛躍がこのころ起きたように見える。巨視的にみれば、それは「礼」の導入であり、文字による統治、文字化された精神文化への道を志向したものであったということができよう。
こうした潮流は、継体朝以前の雄略天皇の時代ころから既に始まっていたことであったが、これを大きく促進する役割を五経博士は果たした。これを決断した継体天皇は、朝鮮半島における権益をあえて百済に譲り、その代償に彼らを招いた。
その背景には、当時勢力を伸ばしていた九州、特に有明海沿岸勢力への対抗意識があったと思う。盛んに半島に進出し、その先進文化を摂取するこの地域の勢力に、当時の大和政権はいささか圧され気味であった。五経博士の来朝は、畿内の勢力が文化先進地域としての地位を回復するための外交政策であったに違いない。その後、磐井の乱を経て九州の石棺材(阿蘇馬門のピンク石)はもはや畿内には採用されなくなり、政権中枢から地方勢力は排除された。大和政権は、百済から招いた五経博士の勧める文明化政策を推進し、また蘇我氏とその配下に居た渡来人と提携することによりこれを進展させていった。
継体天皇は当時の政治の中心である大和・河内から離れた近江湖北の出身で、若狭、越前、美濃、尾張などを基盤として、物部氏や大伴氏、和邇氏、安倍氏ら中央の非葛城系豪族の支持を受けて即位し、九州有明沿岸の諸豪族とも政治的つながりを持っていた。継体天皇の国際的な開明性や親百済政策は、或る面では雄略天皇を継承したものいえる。半島において活躍し帰国した各地の首長に広帯二山式(ひろおびにざんしき)冠や捻じり環頭大刀(ねじりかんとうたち)を与えて評価したこと、秦氏など渡来人を重用したこと、旧勢力の代表ともいえる葛城氏に厳しい姿勢で臨んだことなども、雄略天皇の政策を引き継いだものと言えるだろう。
もちろん二人には違いもある。それは継体天皇が遠い傍系の出自で、地方から現われ政権を掌握した人物だというところにある。元来政権の中枢にいた人物ではない。しかし中央が混迷するなかで、地方にいたからこそ実力をたくわえることができた。地方に永年居たから国際的な開明性が備わった。
継体天皇の故郷高島(琵琶湖西岸)にはもともと渡来人が暮らしていた。またそこから若狭へ出る道は近い。若狭には秦氏がいたし、そこから朝鮮半島へ雄飛した十善の森古墳の被葬者とみられる若狭国造(のちの膳臣(かしわでのおみ))がいた。その若狭は、日本海経由で九州有明海地域と結ばれ、海外に開かれていた。若狭の勢力も江田船山古墳に代表される有明海の勢力も、朝鮮半島での活動がめざましかった。こうした人々との結びつきが継体天皇にはあった。
継体天皇の父彦主人(ひこうし)王は、それまで定着していた近江国坂田郡から琵琶湖の対岸高島郡に居を移した。本拠地に残った兄たちの一族ではなく、本来分家ともいえる新天地に移った彼の息子が次代の盟主となりえたのは、若狭から朝鮮半島、また九州有明海に通じる地の利が影響しているに違いない。当時の外交・国際ルートであったこの地域に進出したことが、継体一族の飛躍につながった。継体自身の朝鮮半島への渡海があったかどうかは措くとしても、おそらく鴨稲荷山古墳の被葬者とその一族は、十善の森古墳に葬られた若狭国造や筑紫君、江田船山古墳の被葬者らと同様、朝鮮半島に渡り、そこで百済などの先進文明に触れる機会もあったのだろう。
磐井の乱によってそれまで提携関係にあった九州有明海沿岸勢力と決裂した代わりに、継体朝の政権は葛城氏の権益を継承する蘇我氏との結びつきを強めていった。そして大王を中心に大伴氏・物部氏・蘇我氏ら中央の有力豪族を中心にとした合議制による政権運営が始まる。中でも蘇我氏とその配下にある倭漢氏(やまとのあやうじ)や西文氏(かわちのふみうじ)、また秦氏らが、たとえば仏教の導入などを推進し、大和政権主導の文明化を牽引していった。