謎の大王族 継体天皇        水谷千秋著

 継体は、応神五世孫の傍系王族だった。五世紀の傍系王族は、二世、三世となって王位継承資格を失うとともに地方に土着していく者が多く、中央における政治力を大幅に失ったように推定される。五世紀には王族が臣籍に降下する制度がまだなかったから、どれほど遠い傍系でも某王と名乗ることができた。したがって継体のような五世王がなお男大迹(おほど)王と王名を名乗ることも可能だった。しかし、傍系王族は原則的には王位継承資格を喪失していたから、実際にはもはや王族といえない立場だった。おそらく実質的な王族の範囲は、大王の后妃、皇子女など、王位継承資格を有する一世王か、せいぜい二世王までに限定されていたに違いない。そのため傍系王族の多くは政権中枢から疎外され、地方に土着するようになったのだろう。その代わり、中央にとどまった王族よりも、むしろ在地において豊かな経済基盤を蓄積できる環境にあった。継体もそのひとりだったとみられる。

 五世紀代の王族の範囲は、事実上かなり狭く限定されていた。これでは大王にどれほどの権力が集中していても、その基盤は脆弱なものであった。仁徳系王統の末期に至って、中央の王族が次第に先細りなっていったのはそのためではなっかったろうか。要するに、五世紀代の仁徳系王統の段階の王族は、いまだ一箇の自立した親族集団になりえていなかったのだ。五世紀後半の王位継承争いのなかで、各皇子は母方の親族に頼って対立をくりかえし、その結果多くの皇子が命を落として、次第に王位継承資格者の数が減少していった。こうした王族の非自立的な体質が、皇子の途絶による仁徳系王統の自滅的な退潮と、その一方で近江出身の傍系王族継体の登場につながっていった。

 継体は、河内の樟葉(くすは)で即位(507年)した後、山背(やましろ)の筒城(つづき)(511年)、山背の弟国(おとくに)(518年)と大和盆地の外を転々とし、磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)(526年)に遷都したのは即位後二十年のことである。継体の大和入りが遅れたのはこれに抵抗した勢力がいたためであって、それは葛城氏とその同族、及びその支援を受けた仁徳系の王族であったろう。しかしこの勢力もやがて衰退し、代わって同族内の主導権を掌握した蘇我氏が、継体を支援する側に転じたことによって、継体の大和入りが実現したと考えられる。こうして長く続いた大和政権内の紛争が終結し、中央諸豪族の結束が回復したのである。蘇我氏の妥協によって政権内部の一本化が実現し、即位二十年にしてついに継体の大和進出が実行に移された。これによって、政権にとっては積年の課題であった、磐井征討の環境が整ったわけである。磐余玉穂宮に入り政権基盤を確立した継体は、時をおかず物部氏、大伴氏の軍を九州に派遣し、磐井征討(527年)を実行に移した。磐井の乱とは、磐井を盟主とする北部・中部九州勢力が独自の首長連合を形成しようとしたことに対する大和政権の反応なのであって、言い換えれば地方勢力の自立化の動きを大和政権が武力で制圧したものということができる。大和政権が磐井との一戦に勝利したことで、しばらく衰弱していた大和政権の威信はかなりの程度回復した。逆にこれ以後、地方豪族の地位は明らかに後退していく。磐井に代表される地方の勢力は政権の中枢から脱落していったのだ。そして大王を盟主とする中央の有力豪族層が政権中枢を構成する体制が形成され、そのもとで国造(くにのみやつこ)制、部民(べみん)制、屯倉(みやけ)制といった、新しい支配秩序が導入されていった。こうして地方に対する支配は、より直接的なものへ強化されていった。