1957年1月 初めての冬を迎えた山小屋 |
尾崎喜八さんとの出会い
現在、富士見高原で執筆、著述の仕事を続けている岡部牧夫君は、当時、成蹊大学の学生で、私の小屋の冬を五度も暮らした仲で、私は彼の好意で成蹊学園所有の谷川岳の虹芝寮という名の山小屋を特別に使用させてもらった。
以前から谷川岳に行きたいといっていた私の希望を、彼がかなえてくれたのである。
私は一人で、スキーをかついで行ってマチガ沢の残雪を滑った。
虹芝寮は、いかにも成蹊らしい、素朴だが格調と伝統を感じさせる雰囲気をもった山小屋であった。
この谷川岳の帰りに、私は岡部君と連絡をとって山口耀久(やまぐちあきひさ)さんの家にお邪魔した。
山口さんは、独標登高会の先鋭クライマーであるが、むしろ思索的な文学者らしい一面をもった人で、すでに、訳書『ドリュの西壁』があり、後年の『北八ッ彷徨』は名著として知られている。
私は、山口さんの家で夕食をいただき、その後、やって来た岡部君と私は、山口さんに連れられて尾崎喜八さんのお宅にうかがった。これは、私の予定外で、しかも思いかけなかった幸いであった。
私は尾崎喜八さんの文学に心酔していた。しかし尾崎さんに直接お会いできるとは考えてもみなかった。
これは、在京の岡部君にしてもめったにない機会であったにちがいない。
尾崎さんとは文学の上でも親交のある山口さんの、私たちに対する心遣いだったと思う。
バッハのレコードが、東京都内とは思えない静寂をさらにしずめるようにして流れた。
尾崎さんの私たちへのお心づくしであった。
「ヴァイオリンソナタ第五番第一楽章」(ベートーベン)、そしてドボルザークの「チェロ協奏曲」と日記にメモがある。
ヘッセや、ロマン・ロラン、デュアメルなどの名が記入されているのは、この夜の話題のものである。
一時間以上にわたる尾崎さんの書斎での私は、尾崎さんの口許に耳を傾け、ただ沈黙しているだけで心は満たされた。
尾崎さんは私たちを、上野毛の駅まで送って下さった。
上野毛のお宅に、尾崎さんを訪ねただけの私であるが、私はその時少しも初対面といった感情は抱かなかった。
すでに少なくとも一方的に私は、書物を通して尾崎さんを充分に知っていたからであろう。尾崎さんも人づてに、私の山の暮らしをお聞きおよびであったから私にも一方ならぬ親しみを見せられたかと思う。
結局私は、尾崎さんとはたった一回お会いしただけに終わった。
山口さんに連れて行っていただいた上野毛での一時間あまりが、最初で最後であった。
にもかかわらず、私は尾崎さんを、ずい分と古くて親しい人に思えてならなかった。