北八ツ
「岳へのいざない」
八ヶ岳はいい山である。
標高からいえば、最高峰・赤岳は2899メートル、日本アルプスに次ぐ高い山だ。天につきあげる岩の頂稜には荒々しい情熱と迫力があり、荒々しい情熱と迫力があり、高嶺の花はゆたかに咲く。それに中腹を被う針葉樹林帯ののみごとさと、裾野にひろがる高原の雄大さは、日本の山々でも屈指のものだ。山の姿がすっきりと美しく、取付きやすいのもなによりだし、これだけすぐれた個性をもっている山はちょっとほかにはないようだ。
南八ヶ岳を動的な山だとすれば、北八ヶ岳は静的な山である。前者を情熱的な山だといえば、後者は瞑想的な山だといえよう。
北八ヶ岳には、鋭角に頂稜を行く、あの荒々しい興奮と緊張はない。原始の匂いのする樹海のひろがり、森にかこまれた自然の庭のような小さな草原、針葉樹に被われたつつましい頂や、そこだけ岩塊を露出しているあかるい頂、山の斜面にできた天然の水溜りのような湖、そして、その中にねむっているいくつかの伝説―それが北八ヶ岳だ。
さまよい―そんな言葉がいちばんぴいたりするのが、この北八ヶ岳だ。
「八ヶ岳の四季」
高山植物がいちばん見事な時期は、七月中旬から八月中旬ごろまでである。早い花は六月下旬ごろにも咲くが、このあいだ(七月中旬から八月中旬)に山上のほとんどの植物が花ひらく。八ヶ岳は、白馬岳や北岳、大雪山などとともに、高山植物の種類の豊富なことでは日本でも第一級の上位にある。名前の一つひとつを知らなくても、岩稜や岩礫地帯をいろどる高嶺の花は、岳の夏をこのうえもなく多彩で豪華なものにする。
「北八ッ彷徨」
北八ッがいかにも森の山だという印象をうけるのは、あの拡がりのためである。高見石や「にゅう」の頂きから眺めた、あの樹海の感じのせいである。したがって、そこには山の斜面に濃い影を刻む深い谷もなければ、おなじように光をさえぎっているとくに高い尾根もない。森の中はいつでもひんやりと暗いが、のびやかに傾斜したその拡がりの上には、ほとんどいつも明るい太陽の光が偏在している。森の山といっても、そこに漂っている光と影は、やはり火山高地の北八ッに独特のものであろう。
森の明るさを添えている別の大きな要素は、その中に点在している草地と湖である。暗い森の中でも、ここだけは正真正銘の明るさがある。北八ッの森林からこの美しい光の窓をとってしまったら、おそらくはこの山地の魅力もずっと少なくなるだろう。
草地といえば、白駒池のすぐ近くにある、森の中の庭園といったつつましい湿原や天狗岳の北面にある天狗ノ奥庭のようなかわいらしい草地をあるが、北八ッを全体的に見わたすと、稜線の山と山の鞍部にあたる場所がうれしい草地になっているのに気づく。天狗岳と中山の間には黒百合平、丸山と茶臼山の長い稜線のたわみには麦草峠と大石峠、縞枯山と雨池山の鞍部の西側には八丁平といったぐあいに、山のうねりがひと休みしてあらたな登りを用意するような要所要所に、それにふさわしい、のどかな草地がひらけているのである。双子山と蓼科山のあいだにある大河原峠は、もう純粋に北八ッといった雰囲気からは遠いが、峠の南側にひらけた天祥寺原の草原は、そのまま高原といっていいほどの、ひろびろとした大きさと明るさをもっている。
湖で代表的なのは白駒池と雨池であろう。双子山と大岳のあいだの凹地に水をたたえた双子池は、秋、池のほとりの落葉松林の黄葉が美しく、十月のなかごろには眼のさめるような色彩を見せてくれるが、惜しいことに池の雰囲気に深みがたりない。
その点、白駒池と雨池は幽邃(ゆうすい)さでは申し分がないし、大きさからいっても理想的なものだ。山の湖というのは大きすぎてもおもしろくないし、小さすぎても物たりないのだが、この二つは両方とも湖岸の一周が散歩に手ごろなほどの大きさで、まのびした感じも、こせこせした感じもしない。
「富士見高原の思い出」
筆者の山口耀久(あきひさ)(1926−生存)さんは肺結核の病気療養のため長野県富士見の高原療養所に1950年(昭和25年)3月から翌年11月29日まで1年9ヵ月の間入院している。筆者は1926年生まれだから24〜25歳の時になる。療養所は、広い八ヶ岳の裾野の標高約1000メートルのところに、ほぼ南を向いて建てられていた。正面に、甲斐駒ケ岳・鋸岳のギザギザの山稜と、入笠山から釡無山に尾根が続き、甲斐駒ケ岳から左に鳳凰山の稜線が続き、鳳凰山と八ヶ岳の間に富士山が据わっていた。八ヶ岳は西岳の円錐を中心にして右に権現岳と編笠山、左に赤岳と阿弥陀岳がそびえ、阿弥陀岳の左には横岳、それにつづいて硫黄岳と峰ノ松目が、さらにその横には天狗岳が独自の高まりを見せているが、いわゆる八ヶ岳の眺めは天狗岳で終わって、あとはぐんと低くなった北八ヶ岳の連山が遠くゆるやかなスカイラインをえがいて大地の果ての蓼科山で尽きている。
尾崎喜八(1892〜1974)が、敗戦後に東京から富士見に移って分水荘という森の山荘に住んでおられた。筆者は他の患者らとともに分水荘を何度も訪ね、尾崎喜八と交流した。尾崎喜八を通して後に山の文芸誌『アルプ』を刊行することになる串田孫一(1915−2005)と出会っている。『アルプ』は1958年(昭和33年)3月に創刊され、終刊は1983年(昭和58年)2月でまる25年にわたり300号を数えた。後に山口耀久(あきひさ)夫人になる川上久子も一緒に療養所から分水荘に通っていた。肺結核になって富士見療養所での療養生活で出会った人によりその後の人生が開かれおり、まさに「禍転じて福となす」とはこのようなこというのでしょう。
近刊『北八ツ彷徨』に至っては、その至愛の連峰への美しい遍歴叙事詩であると同時に、敬虔な感謝の歌ダンクゲザングだといっても過言ではないであろう。彼は生計のための仕事の合間をみては山へ行っている。その山は多くのばあい八ガ岳である。そんなにあの山が好きなのかと訊くと、もちろん好きなせいもあるが、一方ではまた自分の書いた案内書の内容が古くなったり、現状にそぐわなくなったりするのを防ぐために、年年の修正や補足の材料をあつめに実地を見に行くのだという。つまり利用者の信頼にこたえると共に、自分の名をも重んじようとする責任感からである。その方面にはいたって暗い私ではあるが、彼の案内書『八が岳』は、同じような種類の本の中でも最も信のおけるものではないかと思う。 |
わたしの『北八ツ彷徨』は、もう半世紀ちかくもまえの本である。いま読み返してみると、これは自分の若き日の”牧歌”であることがわかる。ことに書中の、結核療養所での闘病生活のことを綴った「富士見高原の思い出」がそうである。この本は幸い読者にめぐまれていくどか版を重ねたが、「アルプ選書」の一冊として出されたこのわたしの初めての随想集が、いまとなれば、自分の人生の方向を決めてしまったようにも思えるのである。 |
山口耀久 | 尾崎喜八 | 串田孫一 |