西沢渓谷

2013年11月3日、紅葉を見に一周約4時間、10kmの西沢渓谷のハイキングコースを歩きました。

七ッ釡五段の滝(日本の滝百選)

田部重冶(たなべ じゅうじ)の文学碑

笛吹川を遡(さかのぼ)る

見よ 笛吹川の渓谷は
狭り合って上流の方へ
見上ぐるかぎり峭壁(しょうへき)をなし
其間に湛(たた)へる流れの紺碧の色は
汲めども盡(つ)きぬ深い色をもって
上へ上へと続いて居る
流れはいつまで斯(かく)の如き峭壁に
さしはさまれてゐるだろうか

大正4年(1915年)5月 塩山ー広瀬ー東沢ー甲信国境ー梓山ー栃本
『日本アルプスと秩父巡礼』より 田部重冶(明治17年〜昭和47年) 31歳の時

雲取山荘の南側にも田部重冶のレリーフがありました。
旧森林軌道

トロッコの由来の説明がありました。

三富村と塩山駅を結ぶ三塩軌道と称し、昭和3年〜昭和43年まで、主に西沢・東沢一帯の県有林の木材搬出に活躍しました。

全長36kmで、自然勾配をブレーキだけで塩山駅まで下り、登りは馬で2台ずつ引き上げていましたが、昭和20年頃からはディーゼル機関車で6〜8台を広瀬ダムの対岸にあった中土場(なかどば)まで運び、そこから奥16kmは、馬に頼っていました。

昭和37年頃まで全盛を続けていましたが、やがて国道が整備され、自動車輸送に変わり、いつしか衰退し、昭和41年、中土場〜塩山駅間の軌道は撤去されました。

田部重冶の文学碑の続きの文章

この疑問が私等の胸中に幾度もくり返された。
そして当分はまず、川原に行く見込みのないことが明らかになってきた。
その故は、見上ぐる限りはるばると鶏冠(とさか)山と国師からの分脈とが抱き合って作っている東沢の渓谷はますます峻(けわ)しく、
そして鶏冠山の主峰を通り抜けるにはまだほど遠くて、その間の流れがほとんど全部深潭(しんたん深淵)を形づくっていることが想像されるからである。

私等は一たびは悲しんだが、またうれしいような気がした。
秩父の山(私等の考えによる秩父の山)の美は、むしろ渓谷にある。
しかしこれほど壮絶な、しかもアルプスに見らねぬ潤いを有する渓谷は、どこに見だすことができるだろうか。
私等は秩父に誇るべき一景を加えたことを喜ばずにはにはいられなかった。


田部重冶の文学碑の近くに甲武信岳への登山口の表示が2か所ありました。近丸新道と得ちゃん新道です。
私が甲武信岳に登ったころには、甲武信岳に直接登る登山道はなかったと思って昔の5万分の1の地図を取り出して調べてみましたが、登山道の表示はありませんでした。

昔の奥秩父の登山ガイドの地図には戸渡尾根(近丸新道)の登山道の表示がありました。

ネットで調べた国土地理院の2万5千分の1の地図には近丸新道と得ちゃん新道の登山道の表示されています。

近丸新道と得ちゃん新道がいつできたかは不明です。

昔の5万分の1の地図引かれた赤線をたどり甲武信岳に登った記憶を呼び戻しました。

三富から秩父往還で雁坂峠まで登り、そこから奥秩父の主稜線を西に向かって甲武信岳に登りました。
その後、北に十文字峠まで行き、そこから東に秩父の二瀬まで下り、そこからバスで三峰口に向かいました。
ランプの灯る十文字小屋に泊まった記憶はありますが、あと一泊は記憶にはありませんが雁坂小屋だったと思います。