八王子城跡
八王子城本丸跡 |
本丸跡より八王子市内を望む |
御主殿といわれる 城主北条氏照の館跡 |
敵が攻めてきた時、取り外せる 引く橋 |
虎口といわれ城の出入口で、 攻めにくく、守りやすい 工夫がされている |
中央線高尾駅から歩いて30〜40分のところに北条氏の八王子城跡がある。八王子城跡行きのバスもあるが、一時間に一本しかなく接続が悪かったので歩いて行った。八王子城跡は発掘調査が進められ、橋や石垣、古道が整備、再現され、北条−豊臣の攻防を偲ぶことが出来た。
八王子城主は、北条氏照だった。北条氏は、小田原に本拠をおき早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直と五代、100年続いた。氏照はこの三代氏康の次男で氏政の弟にあたる。滝山城にいた大石定久の養子となり、成人して大石源三氏照と名乗る。大石氏は滝山城を本拠として埼玉県や多摩に力を持っていた。当初氏照は滝山城にいたが、後に八王子城に移った。永禄12年(1569年)に武田信玄が小田原攻めの途中で滝山城を包囲した際、武田軍の部隊が小仏峠を越えて滝山城に侵入し、滝山城が落城寸前だったという苦い経験がある。これで氏照は八王子城を築くことにした。滝山城のような平地ではなく山城にし攻めにくいし守りやすい八王子城を考えた。 八王子城の造りに木製とはいえ長さ32メートル、幅4メートルの「引く橋」がある。引く橋というのは、もともと敵が攻めてきた時はずせるようになっていた。城内に引っ張りこめば、忍者も通れないというしろもの。八王子城は天正10年(1582年)ころから、北条氏が織田、豊臣軍に備えて築き始めた。標高470メートルの山頂を中心に、石垣や曲輪(くるわ)と呼ぶ平地、見張り台、やぐらなどを配置した堂々たる山城だった。再建された城門を入ると、御主殿といわれる北条氏照の館跡がある。天正18年(1590年)6月23日未明豊臣軍の上杉景勝、前田利家ら1万5千の兵が総攻撃をかけた。氏照や重臣らは小田原城にいて、留守部隊は妻子をふくめて2千人だったから、1日で落城してしまった。全国制覇を狙う豊臣秀吉と北条氏が天正16年(1588年)頃から対立し、北条氏は領内で戦闘準備を始めた。豊臣軍は前田利家を総大将に上杉景勝を加え上州方面から北条氏の各出城を攻め落としながら進行してきた。秀吉軍が小田原城に来襲すると北条軍の司令塔であった北条氏照は精鋭部隊と共に小田原城に籠城し、八王子城は重臣を中心とした守備隊に任せた。八王子城を守っていたのは老武将に率いられた農民、職人、山伏、僧侶や地侍達だったといわれている。
前田利家、上杉景勝ら北国軍は関東北部から北条氏の支城を次々と落としながら南下し八王子城に迫った。それまでは相手を降伏させ、開城させる戦い方だったが、秀吉からそれでは見せしめにならぬと言われ八王子城は徹底的にたたくつもりだった。1万5千の北国軍に対し八王子城の守兵は2千人たらず、山城でどんなに守りやすいとはいってもひとたまりもなかった。天正18年(1590年)6月23日の早朝から攻められ城方も奮戦したが1日で落城した。秀吉−北条合戦の中で唯一の殺戮戦であった。また実際に戦った者たち以外にも八王子城にはその妻子たちが多くおり、この人たちは、館の南にある御主殿の滝の上で次々と自刃しその滝に身を投げたという。これにより城山川はその川の水が真っ赤にそまりそれが三日三晩続いたといわれている。八王子城の陥落は小田原城に籠城していた北条軍の志気を失わせ、7月に開城することになった。北条氏照も兄氏政ともに切腹した。北条の自信は家柄によるもので、秀吉との実力差に気づかないまま抵抗を続けた北条、特に最高権力者であった氏政の凡庸に犠牲となったのが、八王子城であった。秀吉は敵対する相手には皆殺しの態度をとってきたが、すぐに降伏した者には寛大な処置をしており、北条も徳川家康の仲介を素直に聞き入れ秀吉に臣従していれば、このまま関八州の盟主として君臨することもできたであろうし、このような悲劇も生まれなかっただろう。