司馬遼太郎の街道をゆく「甲州街道」より

 小田原北条氏は関八州285万石、士卒7万、この勢力の瓦解は、関東の村々で大混乱をおこしたであろう。7月に落城して、家康はその動揺のなかを江戸へ入ったわけである。北条の落武者が在所々々にかくれたり、盗賊や乞食僧になったりして物情はかならずしも鎮まらなかったにちがいない。

 それらの落武者やら浮浪人やらが、武蔵の西のはしの八王子あたりにあつまり、小屋がけして住みついた。  ――なぜその連中が八王子にあつまるのか。  ということを、家康は調べたにちがいない。想像するに、まず武蔵の最大の都会というのは八王子だったからであろう。

 それよりもずっと昔、このあたりは、「横山」とよばれた。源平時代、武蔵七党といわれたこの国の七つのグループの武士団のなかに横山党というものがあり、それが八王子付近の台地を根拠地としていた。はるかにくだって戦国の北条時代になると、その治下に入り、秀吉の小田原攻めのころは北条氏照(北条家当主の弟)の居城であったから、よほど有力な城であったといえる。

 これを秀吉軍の二将が攻めた。上杉景勝と前田利家で、人数は1万5千である。城方は2千ほどであろう。城主の氏照は小田原に籠っていたから、この城はその配下の武将たちがまもっていた。秀吉方の二将は朝霧にまぎれてせまり、にわかに襲い、半日で陥落させてしまった。北条方の戦死者は千余人というから、戦国期の戦闘としては惨烈な部類に属する。ただしこの八王子城はいまの八王子ではない。

 旧八王子の城下が兵火で灰になったあと、いったん逃げ散った城下の商人たちが、あたらしい市場の地をもとめていまの八王子に移り、市をたてた。その賑わいをもとめて落武者どもがあつまってきていたのである。

 家康は関東に入って身代が大きくなったため、新規に人を召しかかえねばならない。かれらを放逐して治安をわるくするより、むしろ召しかかえて徳川家臣団のなかに組み入れてしまうほうが一挙両得であると思ったに違いない。『落穂集』によると「家康公が江戸御入国のとき、武州八王子にてあらたに五百人ばかり召しかかえられた」と、ある。「八王子千人同心」といわれる特殊な徳川直臣団は、このようにしてできた。家康はかれらを甲州街道の西端のおさえとして八王子に住まわせ、甲斐や相模に抜ける小仏峠の防御にあたらせた。それを支配するために、徳川家臣団のなかで甲州侍(武田家の旧臣)を組頭にした。
 武田の遺臣ということについては別な伝説もあるが、略す。

 同心だから、要するに足軽身分で、三十俵二人扶持という食えそうにない扶持だったが、農地を開いて屯田兵の形勢をとったから、それでも凌げたのであろう。「つまり、その千人同心のあとを見に行くんですか。」と、Hさんがいったのは、私がなぜ甲州街道を選んだのか、理由がわからないためらしい。
 じつは、私にも、うまくそのことが説明できない。

 八王子の人にきくと、いまでも千人同心の家屋敷がいくつかのこっていて、子孫のひとびとも住んでおられるという。
 この八王子同心の家系から、『東海道中膝栗毛』の十返舎一九が出たし、ごく最近のひとでは、江戸研究家三田村鳶魚えんぎょもこの千人同心の家の出である。
 幕末のころは長州征伐にもいっているし、蝦夷地警備のために松前へも行った。江戸の御府内で威張っている御旗本のお歴々よりも瓦解期の幕府のためによく働いたような気がするが、そうだとすれば「愛国心は辺境に生ず」という通例のようなものが、八王子同心にもあたるであろう。ただし新撰組に入った者はいない。