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◎虚無僧尺八の表裏を探る− 4◎

「慶長の掟書」の偽造

 第一に、「慶長の掟書」の偽造ですが、これは徳川家康公が浪人を憐れんで、これを保護するために虚無僧に特権を与えたとするもので、1614(慶長十九)年に下付さ
れたと称しています。しかし現実には延宝年間(1673〜80)に偽造されたものと推測されます。後にも述べますが、掟書は原本は存在せず、実在するのは写しだけで、それも多くの種類があり、時代が下るに従って内容がさまざまに変わるのですが、ここでは比較的初期の、本来の「偽の掟書」に近いと思われるものを紹介します。これは1792(寛政四)年に鈴法寺の末寺で上州太田(群馬県太田市)の和光寺から幕府に提出されたものです。原文は「御入国の節仰せ渡らせ候御掟書」(家康公が関東に入国されて幕府を開いた時に発布された御掟書)と題され、内容は十一ヶ条から成りますが、少し省略して紹介します。

一 虚無僧の儀は、勇士浪人一時の隠れ家となし、守護入れざるの宗門。よりて天下の家臣諸士の席、定め置くべきの条、その意を得べき事。

 (虚無僧は、勇士が浪人をして仕官先を探し当てるまでの一時の隠れ家とする身分で、幕府の警察権の及ばない宗教団体である。従って、虚無僧は武士と同じ資格を持つものと定められていることを理解すること
。)

一 虚無僧、諸国行脚の節、疑わしき者見掛け候ときは、早速召し捕らえ、その所へ留め置き、国領はその役人へ相渡し、地領代官所はその村役人へ相渡し申すべき事。

 (虚無僧は、諸国行脚の際に、疑わしい者を見つけた時は、捕まえて役人に引き渡す任務と権限を持つ。これがいわゆる「公儀御用」でしょう。)

一 虚無僧の儀は、勇士の兼帯なる為、自然敵など相尋ね候旅行、依て諸国の者、虚無僧に対し、麁相(そそう)慮外の品、または托鉢に障り、むつかしき儀出来候節は、その子細を相改め、本寺まで申し達すべく候。本寺に於いて相済まざる儀は、早速、江戸奉行所へ告げ来るべき事。

 (虚無僧は敵討ちのために旅行していることもあるので、諸国の者は虚無僧に対して粗略な扱いをしたり、托鉢の邪魔をしてはいけない。

一 虚無僧止宿は、諸寺院あるいは駅宿の役所へ旅宿いたすべき事。

 (虚無僧は諸寺院や駅宿の役所へ宿泊すること。逆に言えば、無料で宿泊できるということでしょう。)

一 虚無僧の法冠は猥(みだ)りに取るべからざるものと、万端心得べき事。

 (虚無僧の法冠(天蓋)は、みだりに取ってはいけない。逆に言えば、顔を隠して天下を通行できる。)

一 尋ね者申し付け候節は、宗門諸流、丹誠をぬき抽んずべき事。

 (幕府がお尋ね者を捜す仕事を命じた時は、虚無僧諸流派は誠意を持って励むこと。これも「公儀御用」。)

一 虚無僧、敵討ち申したき者これあるは、吟味を遂げ、兼ねて本寺に断り、本寺より訴え出すべき事。

 (虚無僧で、敵討ちをしたい者があれば、許可を申し出ること。)

一 諸士血刀を提げて寺内に駆け込み、願を依る者は、その起本を問うて抱え置くべし。もし弁舌を以て申し掠める者これ有らば、早速訴え出づべき事。

 (武士が血刀を持って虚無僧寺に駆け込んできたら、事情を確かめて保護すること。)

こんなことになります。つまり、ここに定められた虚無僧の特権とは、武士でありながら托鉢できること、顔を隠して通行できること、全国の寺院や宿駅に無料で泊まれること、怪しいものを召し捕る任務があること、虚無僧寺の中には町奉行が入れないこと、また、殺人などの犯罪を犯した者をかくまう権利があることなどです。どの条項も虚無僧にとって都合のいいことばかりで、特に最後の条項などは、お尋ね者が虚無僧寺に逃げ込んだ時、役人に引き渡すか否かの判断は虚無僧に任されていることになります。虚無僧自身が犯罪者である場合などを考えれば、こんな無茶苦茶な話はありません。実際、虚無僧が犯人だったという記録はよくありますが、虚無僧が犯人を捕まえたなどという記録は、まずありません。また、お尋ね者の探索などの「公儀御用」を仰せつかる義務があるなどという条項も、お上の権威を利用した民衆への脅し以外の何物でもありません。

 条目に明記されてはいませんが、虚無僧は幕府の隠密の役目を務めることがあるという話も、まことしやかに流されました。しかし、常識で考えても、隠密とは、それと分からない格好をしていなければ仕事にならないでしょう。ところが、一目でそれと分かる虚無僧の格好をしているとなれば、隠密など出来る筈がないのです。

 つまりこの掟書は、虚無僧が自らの治外法権的な地位を自分で勝手に保証している文書なのです。こんな大変な文書をどうやって偽造したのか、よほど精巧な偽造技術でも使ったのかという疑問がおありかもしれませんが、別にたいしたことはありません。奉行所に文書を提出して、「本物はいついつの火事で焼けてしまいましたが、ここに写しがあります」と説明したらしい。

 この掟書はいつまで法律としての効力を持ち続けたか。幕府が「普化僧之儀ニ付御触」という文書を出してこの掟書でうたわれていた虚無僧の特権をことごとく剥奪したのは、江戸時代も末の末、1847(弘化四)年のことでした。これは明治維新の二十一年前です。つまりこの掟書は江戸時代のほぼ終わりまで法律として通用し続けたのです。こんな虚無僧の手前勝手な掟書を、疑う人はいなかったのでしょうか。もちろん、幕閣や学者の中には疑う人はたくさんいました。有名な人では、新井白石などもその一人でした。しかし彼等は結局この掟書を正面から否定しませんでした。それにはいろいろな理由が考えられます。一つは徳川家康の威光を背負った文書に対して迂闊に文句は付けられないということがあったようです。家康は江戸時代はなにしろ東照神君と呼ばれて神様扱いされていました。うっかりケチを付けて虚無僧に揚げ足でも取られれば、かえって自分の首が危なくなる。そこまで行かなくても、政敵に足をすくわれる口実になる

 また、そもそも寺社勢力は武家勢力にとって中世以来もっとも厄介な敵でした。歌舞伎の勧進帳などを見てもわかりますが、富樫は弁慶の読み上げる勧進帳を自分の手にとって見ることさえ出来ませんでした。寺社の支配領域に武士が敢えて手を出すことは慎重を要したことは想像されます。虚無僧も武士ですが、自分たちを取り締まる武家権力の弱みをいわば逆手にとったとも言えるでしょう。

 もう一つは、「武士の情」、「武士は相身互い」とでも言うか、幕閣たちは虚無僧たちの不法を黙認したのかも知れません。行き場もない浪人たちをこれ以上追いつめてしまえば、どのような反社会的な行動に出るか分からない。その典型的な例が、1651(慶安四)年の由比正雪の乱でした。虚無僧の特権を黙認しておけば、庶民は迷惑するが、せいぜい御布施をねだられる程度のことである。ということで、これも富樫が義経をお尋ね者と知りつつそうしたように、敢えて見逃した。

 もう一つ面白いことがあります。江戸時代には、徳川家康公が特権を与えてくれたと称して普通の法律を超えた権利を行使した集団は、虚無僧だけではなかったのだそうです。鉱山技師などの仕事をした人たちもそういう存在だったそうです。こう考えると、佃島の漁師が家康公から佃煮を作る特権を与えられたなどという話も眉つばに思えてきます。「佃煮の御朱印状」なんて、本当に家康公が書いたのでしょうか?!

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