◎ 虚無僧尺八の表裏を探る−3 ◎
◎縁起と虚構
虚無僧が「臨済録」という中国の書物の中から普化という特異な禅僧を見つけ出し、それを宗祖と仰いだ理由は、自分自身と普化の間に、何らかの共通点を見出したからでしょう。一般的に言って、宗教を信じる者は、その開祖をお手本として生きるものです。逆に言うと、宗教を求める者は、自分の思想や行状を肯定するのに都合のよい物語を持った開祖を見つけ出す、または創造するのでしょう。
虚無僧は、失職、貧困、物乞いという物心両面における困難の中で、自らのアイデンティティーの崩壊の危機に直面していました。物乞いをして暮らすということは、言うまでもなく、武士のプライドを捨てるということであり、それは自己矛盾、自己崩壊の危機とも言えることでした。その時、彼らはこの世の中に、文字どおり「立つ瀬がない」、「身の置き所がない」状況に追い込まれていたと言えるでしょう。しかし、そんな自分たちを救ったり同情したりしてくれる人、思想、宗教などというものは、どこにも存在しませんでした。虚無僧たちは、自らを正当化あるいは言い訳し、また、社会に対する自らの身構えを説明したり主張したりするための物語を、自分で作り上げるしかなかったのです。「武士は食わねど高楊枝」と言うが、平たく言えば、腹が減って物乞いをするにも、武士たるものには理屈付けが必要だったのです。これは虚無僧に対する揶揄や笑い話ではなく、「人はパンだけで生きるものではない」というような言葉に関わる、人生の大切な課題なのです。『虚鐸伝記』には、そのような苦肉の意図が働いていると言わざるを得ません。フィクションによって自己を語るという行為は、現代で言えば、小説を書く行為にも通ずるものがあると言えます。
そういう意味で、『虚鐸伝記』は、下手な作り話として読み飛ばす訳にはいかないのです。縁起と言えば、日本でもっとも人気のある話は、「道成寺」の鐘の由来、つまり安珍・清姫の話でしょう。しかし、あれなどは道成寺の信徒のアイデンティティーを説明している訳でも何でもありません。極端に言えば、道成寺に観光地としての価値を付加しているに過ぎないでしょう。
このような視点から『虚鐸伝記』と『臨済録』を読む時、まず第一に注意を引かれるのは、そこに描かれた普化の人間像です。次の一節は、『臨済録』の中にある興味深いものです。
◎ 普化の人物像
前に普化は臨済の後見のような仕事をしていたと書きましたが、後見とは下僕ではありません。岩波文庫の朝比奈宗源訳によって読んでみましょう。臨済が、初めて臨済院に住職として赴任した時、普化にこう言っています。
わしが南方に居て、い(三水に為)山に書状を持っていった時に、そなたが先にこの地に住んでわしが来るのを待っていてくれると、仰山が告げたのでわしはやって来た。そなたの協力を得て、黄蘗の宗旨を挙揚しようと思う。どうかよろしくわしの足らぬところを補ってもらいたい。
同文庫の解説と系図によれば、臨済は黄蘗の弟子、普化は馬祖下三世とありますから、臨済のいわば遠い親戚の法系です。臨済はその宗教活動の出発点において、普化の世話になっている。具体的に言うと、普化の寺に住み込ませてもらったとでも言うか、初めは普化が主人で、臨済はその客分のような立場だったと解釈されるのです。しかし、臨済録全体を読むと、普化は臨済の器量が優れていることをすぐに見抜き、臨済院の主人(住職)の立場を譲ったことが推測されます。そして隠居のような立場になった。喩えて言うと、普化は、遠い親戚の実力者臨済に家督を譲った隠居ということになります。だから普化は、臨済院で自由気ままに暮らした。彼の奇行の背後には、そのような事情があったのです。また、彼は臨済の世話になっていながら、しばしば臨済に対して先生のように振る舞っています。これも、臨済に家督を譲った隠居という立場を考えれば理解できるでしょう。臨済も、普化の鋭い宗教的なひらめきには、しばしば舌を巻いています。普化は、実は中国の道教や老荘思想の流れを汲む道者であり、普化の思想は臨済宗の成立に大きな影響を与えているという学説もあります。
興味深いことは、このような普化と臨済の関係が、時と所を変えた江戸時代の普化宗(虚無僧)と臨済宗の関係にも当てはめられたことです。つまり、虚無僧たちは、臨済に対する普化の立場を自分たちにも当てはめて、臨済宗に対して自由気ままに振る舞う口実にした。臨済宗の末寺としてその社会的立場を保障してもらいながら、臨済宗の僧らしい修行や仏事などはまったく行わず、托鉢修行にかこつけて、ゆすりたかりなど、宗教とはおよそ無縁の反社会的な振る舞いを公然とした。その上、普化宗総本山を名乗って、多くの末寺を配下に置いたのです。虚無僧たちが、臨済宗寺院の一部を勝手に占拠して、そこを普化宗寺院と称して治外法権的な溜まり場にしたことも多かったようです。彼等は、武士の特権と隠居の特権を重ね合わせて利用したのです。
◎ 普化と臨済
臨済録の中にある、臨済と普化の次のようなやりとりも興味深いものです。以下の話は『虚鐸伝記』にも引用されています。
師(臨済)はある日普化とともにお斎(とき)に信者の家へ招かれて行き、そこで問うた、「一本の髪の毛が大海を呑み乾し、一粒の芥子の中に須弥山を納れる、と言うが、これは不可思議な奇蹟と考えるべきか、それとも見性した者には自然にそなわるはたらきであろうか。」普化はいきなり食卓を蹴倒した。師「なんと乱暴なことじゃ。」普化「ここに乱暴とか穏やかとかいう沙汰がありますかい。」
その翌日、また師は普化と共にお斎に招かれた。そこで問うた、「今日の供養は昨日と比べてどうだね。」普化はやはり食卓を蹴倒した。師「それでよいはよいが、あまり乱暴すぎるわい。」普化「どめくらめ! 仏法に乱暴だの穏やかだのがあるものか。」師は舌を吐いた。
ここで、臨済は普化に対して、そもそも宗教は可能なのかと問うているのでしょう。この問いに対して、普化はいきなり食卓を蹴倒しました。これは、この問題は実践で取り組むべきもので、しかも手段を選んでいる暇はない、ということでしょう。翌日のやりとりも同じで、宗教は、究極のところ、程度を考えて取り組むものではないということでしょう。この場合は「穏やか」な方法でよいとか、このやり方は「乱暴」すぎるとか区別するものではない。常に全身全霊で取り組む以外はない。考えてみれば、これは日々の生活も、仕事も、芸術も同じですが。普化は、修行と奇蹟の不可思議を体得しているのです。臨済も、同じようなことは別の所で言っているのですが、何故かここでは常識人のように描かれ、普化に教えられる立場になっています。
つまり、ここから汲み取れることは、もしかすると普化は臨済より「偉い」かも知れないということであり、また、普化の奇行は一見不可思議だが、実は深い意味がありそうだということでしょう。つまりこの話は、普化宗の宗徒たる虚無僧は、臨済宗の僧よりも「偉い」かもしれず、普化のような奇行が許され、しかもその奇行には深い意味がある、と説明する話として解釈することが出来たでしょう。
◎ 風狂と韜晦
もう一つ、臨済録の中の普化の遷化の逸話。これも『虚鐸伝記』に引用されています。
ある日普化は街に往って僧衣を施してくれと人々に言った。多くの人が僧衣を与えたが、普化はどれも受け取らなかった。師は執事に命じて棺桶一式を準備させ、普化が帰ってくると、「わしはお前のために僧衣を作っておいたぞ」と、言った。普化は自らそれを担って街をめぐって叫んだ。「臨済さんがわしのために、ちゃんと僧衣を作ってくれた。わしは東門へいって死ぬぞ。」町中の人が競って後に続くと、普化は、「今日はやめた、明日南門で死ぬことにする」と、言った。
こうしたことが三日つづくと、もう誰も信じなくなり、四日目には誰もついて来る者がなかった。普化は一人で鎮州城の外に出て、自ら棺の中に入り、通りがかりの人を頼んで蓋に釘を打たせた。この噂はすぐにひろまった。町中の人たちが先を競って駆けつけ、棺を開けてみると、普化の棺は空っぽであった。そして人々はただ、空中に遠ざかっていく鈴の響きを、ありありと聞くばかりであった。
普化は自分の死を予告して、人々を東西南北に振り回しました。たぶん彼は、自らの生死を道具のように使いこなし、人々に生死を越える真理の存在を教えようとしたのです。ところが、人々は四日間も走り回っただけで、何も得ることが出来ませんでした。ただ、人々は空中に遠ざかる鈴の音だけを、ありありと聞きました。その鈴は、普化がいつも鳴らしていたものでした。この話は、普化が道教の仙人の性格を持っているとか、詳しく話すと長くなるので省略しますが、次のようなことは確かでしょう。つまり、普化は人々に何かを教えようとして、四日間も東西南北に引き回した。この奇行の意味を、臨済だけは理解していた。普化は韜晦(とうかい)した。「韜晦」とは、姿を晦(くら)ますことです。そして、その後に、鈴の音が残った。その音は普化亡き後も、人々に何かを教えようとしている。
普化を宗祖とする虚無僧は、この話のように、人々の前で尺八を吹き、奇行を残して韜晦する。この奇行には意味がある。普化の奇行を臨済が理解していたからです。そして虚無僧は、ただ尺八の音だけを残して去る。虚無僧は、普通の禅僧のように座禅をしたり、禅問答をしたり、民衆に説法をしたり、法事をしたりする必要はない。ただ、尺八の音の中にすべての教えが込められているということでしょう。それは普化の鈴の音を移したものだからです。「一音成仏」という思想といい、尺八本曲の「虚空」、「鈴慕」、「虚空鈴慕」という曲名といい、その内面的な背景にこの話があることは確かだと私は思います。
◎ 鎮魂の音楽
虚無僧が自分たちのあり方を普化に擬(なぞら)えた、つまり普化を自分たちの姿と似ていると思って親近感を持った、その理由を、もう少し深く考えてみましょう。まず、普化は優れた禅僧でした。そして、さらに優れた臨済という対抗者が現われました。そこで普化は、臨済にすべてを譲って、姿を隠した。これと似た筋書きが、臨済録よりももっともっと古い、日本人の記憶の原形の中になかったでしょうか。そうです。日本人が仏教を受け容れるもっと前から持っていた神話を記録した『古事記』の中に、『大国主の神の国譲り』の話というものが伝えられています。大国主の神は、古代出雲、伯耆、因幡、播磨、越、信濃一帯を支配した大豪族でした。それが天照大神(あまてらすおおみかみ)との争いに敗れ、自分の支配地を譲って、「長(とこしへ)に隠れた」といいます。その大国主の神を祭ったのが、出雲大社です。
最近、梅原猛や井沢元彦などによって、日本人の思想の原形である『怨霊信仰』というものが論じられ、一般に理解されるようになりました。大国主の神については、『逆説の日本史1 古代黎明編』に八十ページにも亙って述べられているので、詳しくはそちらに譲ります。怨霊信仰とは、簡単に言うと、歴史の敗者を神に祭り上げることによって、その怨霊を鎮め、勝者によって築かれた世界に害を及ぼさないようにする思想の仕掛けとでも言いましょうか。
虚無僧つまり浪人も、始めは皆彼らの主君とともに日本各地に群雄割拠し、天下を統一して自分たちがその支配者になる夢を描いていたに違いありません。武田・上杉・毛利・伊達・豊臣、皆、輝かしい歴史のスターたちでした。その家臣たちも主君と一心同体だったでしょう。虚無僧たちは「世が世なら」このような輝かしい存在だったはずなのです。しかし、現実の歴史の中で、彼らの主家は滅亡し、生き残った彼らは敗者の側に回されました。そして彼らは、新しい支配者、具体的には徳川家を中心とした大名とその配下の侍たちに天下を譲らざるを得なかったのです。そして自分たちは、行き場がなくなりました。大国主のように天照大神に国を譲り、「長(とこしへ)に隠れ」る、また、普化のように臨済に寺を譲り、鈴の音だけを残して虚空に消えるしかない立場に立たされてしまったのです。虚無僧が、普化の行状に自分たちと似た姿を見出したのは、なるほどとうなづけることです。
虚無僧の音楽である尺八本曲がどこか鎮魂の響きを伝えているというのは、尺八を吹く人、また聞く人なら、誰もが、特に説明されなくても直感的に感じていたことだったでしょう。しかし、このように、虚無僧というものを歴史的に考えてみると、そのことはいっそうはっきりします。尺八本曲は、浪人たちが自らの見果てぬ夢を弔い、荒れる魂を鎮める鎮魂の音楽だったのでしょう。
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