<孤独への願望> 独りになりたい、といつも思う。 他人と関わり合うのが煩わしいのである。 私には私なりの生き方がある。 他の誰かに合わせるのはイヤだ。 私は出来るだけ他人(ひと)との交わりを避けて今まで生きてきた。 それでも生きていれば、どうしたって他人と交わらざるをないこともある。 もうこんな世界はかなわん。 仕事を辞めて山にでも籠もりたい衝動に私はしばしば襲われる。 そんなとき、親がきっと文句言うだろうな、と私は想像し、ますます気が重くなった。 どんなに逃げようと思っても、親が生きているうちはおそらく私の心が完全に自由になることはないだろう。 否が応でも、断ち切れない絆がこの世には存在するのである。 まだまだ当分の間、独りにはなれないと私は思っていた。 ところが、思いがけずその日は訪れるのである。 始まりは3月に掛かってきた兄からの電話であった。 母親の胃の調子が悪いという。 胃が痛くてほとんど食事も取れない状態だというのに、検査を受けようとしないらしい。 私からも病院に行くように勧めろ、という趣旨の電話であった。 この時点では、よもやあんな事態になるとは私は思ってもいなかった。 私は兄に言われるままに実家へ一回電話を掛けたきりである。 電話口で病院へ行けと言うと、「行く行く」と素直に返答していたので、そのまま放っておいた。 68歳になったばかりの母が胃癌であると分かったのは4月も終わりに近づいた頃のことであり、その時点で一ヶ月近く何も食べていないという有様であった。 <母の事情> もっとも病院に行かない母には母で事情があった。 パーキンソン病に掛かっている上に認知症も併発した父を介護しなければならなかったのだ。 人目を気にする私の母は、父を介護施設に預けることが出来なかった。 古い考え方の人だったので、介護を放棄することが恥ずかしいことだと思っていたようである。 デイサービスの車が家の前に泊まっているのを人に見られたくないと良く言っていたものだ。 実際問題として、検査に行って入院にでもなったら誰が父の面倒を見るのか。 兄嫁さんには到底押しつけられないし、私や兄も仕事がある。 介護施設は順番待ちですぐには入所できない。 今になってみれば、そんなことはどうにでもなったのにと思うのだが、母が癌だと判明するまではなかなかあの父を引き取る気には私も兄もならなかっただろう。 もちろん、単に母が病院嫌いだったせいもある。 どうも自分が病気になるはずがないと思い込んでいるフシがあった。 ほとんど病気一つしたことのない人だったのである。 叔父さんの退職祝いをやらなければ格好がつかないなどと、何かと理由を付けては精密検査を拒んでいた。 よくもまあ、一ヶ月も食事が取れないで生きていたものである。 この間、父の世話に加えて、母の面倒まで近くに住む叔母が見てくれていた。 この叔母には最後の最後までお世話になり続けることになる。 <スキルス胃癌> この間、母は全く病院に行っていなかったわけではない。 3月の中旬に胃カメラを飲んでいる。 父を病院に連れて行った際、鼻から入れる小さい胃カメラを導入したとのポスターを見て、その場で診てもらったようである。 この胃カメラは苦しくないのが売りのようで、苦しくないならやってみようと思ったらしい。 しかし、これがまた不幸なことに癌は発見されなかった。 見るからに綺麗な胃袋だったのである。 極めて運の悪いことに母の胃癌はスキルス胃癌であった。 スキルス胃癌は胃壁に現れないことが多く、胃壁の内部で増殖し、外側へ進行していく。 また塊にならないで癌細胞がどんどん散らばっていく、もっとも質の悪い胃癌でもある。 胃癌患者の中でも10%程度しかいないというのに、まったくもって運の悪いことであった。 おそらくこの時点で癌細胞は相当増殖していたと思われるが、胃壁には異常が見られなかったため、胃カメラでは発見できなかったのである。 スキルス胃癌を発見するには古典的なレントゲン写真が一番良いのだそうだ。 胃壁が厚くなって、胃の通り道が狭くなっているのが造影剤でハッキリと写る。 しかし、スキルス胃癌は確率的にあまり高くないので、大抵の場合は胃カメラを先にやるようである。 私も母が胃癌になったことを知ってから胃が痛くなって診察を受けたが、やはりまずは胃カメラを飲んだ。 私の場合は単なる神経性のもので、胃は極めて綺麗だったし、いると発ガン率が高くなるといわれるピロリ菌もいなかったのだが。 胃カメラで何も発見されなかったことがますます事態を悪くした。 本人も胃癌の可能性を排除してしまったし、医者も胃癌を頭から外してしまったのである。 介護疲れによるストレス性胃炎ではないか、などと適当な診断を下されて、見当違いの胃薬を飲むハメになった。 初めからバリュームを飲んでおけば、あるいは胃壁に癌が現れるもう少し後に胃カメラを飲んでおけば・・・、と思うのだが、今となっては後の祭りである。 胃癌の発見が一ヶ月以上遅れてしまった。 この一ヶ月がなければ完治していた・・・とまでは思えないが、さりとて、残された時間と生活の質(Quality of Life)は相当違ったものになっていただろう。 私はこの間の事情をまるで知らずに東京で暮らしていた。 母親がスキルス癌に冒されているなどとは露と思わず、私は平然と日々を過ごしていたのである。 母親の体調が劇的に思わしくないことを私が知ったのは入院の知らせを聞いてからであった。 すぐに精密検査が行われ、4月23日にはスキルス胃癌であることが分かった。 この時点でもう既にアウトであった。 <手術前> 本来ならばすぐに帰省したいところだったが、帰ったところで私に何かをしてやれるわけではない。 今後休暇を取らなければならない事態も多くなるだろうということで、週末まで待った。 私が帰省したのは4月26日になってからである。 私が東京にいる間、兄は手術スケジュールを早めるよう担当医等と折衝していた。 看病する側の気持ちとしては、もう何でもいいから早く手術してやって!という思いである。 母は全く何も食べることが出来ず、ずっと生唾をはき続けていた。 常時強い吐き気にも襲われるため眠ることも出来ない。 手術すれば治ると思っているわけではないが、あんなに苦しそうなのは見ていられない。 しかし、入院当初、ずいぶんとノンキなスケジュールが立てられていた。 ゴールデンウィーク明けじゃないと手術できないというのである。 もちろん、手術は外科医一人では行うことが出来ない。 手術チームが揃うのは5月14日になってしまうとのことであった。 しかし、とてもあと2週間あの苦しみに耐えさせることは出来ない。 ここは兄も頑張った。 粘り強く交渉し、4月29日に手術してもらえることになったのである。 生唾だけでなく、大量に吐血したこともあって、病院側も配慮してくれたようだ。 このときほど兄に感謝したこともなかった。 当然手術をする以上、母親に癌を告知しなければならなかったが、兄が悩んだほどには母は驚かなかったようである。 さすがに本人も分かっていたのであろう。 とにかく早くやって頂戴、苦しくてかなわん、と言うばかりであった。 私が帰省したのは、全ての手続きが終わってしまってからである。 病室に駆けつけたものの、どうすることも出来ない。 母親はベッドに横たわって、生唾を四六時中はき続けていた。 とにかく苦しいらしい。 ゲロ吐き桶を抱えてまんじりともせず横たわっている。 一応制吐剤を投与されてはいるのだが、全く効果はないようであった。 私にはなんにもしてやることがなかった。 話すことは出来るのだが、苦しいから横にいて話かけられるのも嫌がるのだ。 おかげで病室にいることも出来なかった。 兄と二人で病室の横にある休憩スペースに詰めながら、ときどき母親の顔をのぞきに行くだけの週末であった。 <手術当日> 4月29日。 いよいよいよ手術である。 手術は午後からだが、準備のために10時から母は手術室に入ることになっていた。 9時から兄嫁さんと姪達が面会に来た。 場合によってはこれが最後になるかもしれないからだ。 不測の事態も十分に考えられた。 もちろん、そういった事態に備えて同意書なるものも提出済みである。 提出しないと手術はしてくれない。 手術前は相変わらず生唾をはき続けていたが、それでも会話を交わすことは可能であった。 もうすぐこの苦しみから解き放たれるということで、前日よりも心なしか安堵しているようにも思えた。 死ぬかもしれない恐怖より、とにかく苦しいのをなんとかして欲しい一心なのである。 いよいよ手術室に向かう母に、「これでやっと楽になるで」と言って私は送り出した。 送り出してしまうと我々にはもうやることはない。 手術室の近くにある「家族控え室」なる部屋でひたすら待つ。 兄と二人で・・・と思ったのだが、実際には二人きりではなかった。 ICU(集中治療室)に入っている患者の家族も出入りするのである。 いまICUに入っている患者さんは大家族のようで、入れ替わり立ち替わり次々と面会の客が入ってくる。 どうもその患者の死期が近づいているようだ。 大家族らしく小さい子供がたくさんいて、わいわい騒ぐし、年寄り連中は普通に世間話しているし、我々は気が散って仕方なかった。 集中しても仕方ないのだが。 おまけにヤケにエアコンの設定温度を下げるので、寒くてしょうがない。 まったく勝手な連中だ、などと兄とつぶやきあった。 それはさておき、母のことを心配しつつ、ひたすら手術の終わるのを待つ。 事前に胃癌の手術にどれぐらい時間がかかるのかを調べておいたのだが、普通は大体2時間ぐらいのようである。 ただし、周りに転移していて、それも取り除き始めるともっと時間はかかるらしい。 13時から2時間として、15時ぐらいが標準か。 あまりに早く終わるようなら、摘出に至らずに断念したことになるし、あまりに長ければ、相当悪いに違いない、などと兄と囁きあった。 果たして手術は15時頃に終わった。 手術が終わるとすぐに手術室横の医師控え室のような場所に呼び出される。 部屋には医師が一人と大きな肉片が一つ。 まな板のようなものにピン留めされた胃袋が金属トレイの上に置かれ、その上に布がかぶせてあった。 医師が病状と手術経過を説明した。 目の前に置かれた母の胃袋を指して、この辺が全部癌です、と医師は説明する。 正常な胃袋がどうなっているか知らないから言われるままに納得するしかないのだが、胃全体がほぼ全てがん細胞であった。 おそらく病状が著しく悪いことを理解させるために現物を持ってきたのであろう。 癌は胃のみならず、周りにも転移していたようだ。 目で見て転移がわかる部分は胃以外にも脾臓や肝臓の一部をとったそうである。 当面生命の維持に必要な臓器には転移が見あたらないものの、周辺のリンパ節は腫れ上がってあり、転移していることは間違いなさそうとのことであった。 また、腹膜にも癌は飛び散っており、もう手の施しようがなかったそうだ。 いわゆる腹膜播種というやつである。 胃を摘出すべきかどうか迷ったが、なんとか取ったという話だった。 ほおって置いたら一ヶ月保たなかったかもしれないとのこと。 もうこれ以上、外科的治療をすることは出来ない。 後は抗がん剤治療をするだけである。 抗がん剤治療によってある程度は延命できるかもしれないとのことであった。 執刀医の話を聞き終わると程なくしてICU(集中治療室)での面会が許可される。 今どきの手術は、終わって1時間も経たないうちに面会できるのである。 おそらく麻酔の量が精密にコントロールされているのであろう。 口にマスクを付けられ、鼻やら腕やらにチューブを付けられた母が、得体の知れない制御機器が脇に並べられたベッドの上に寝かされている。 看護婦によるともう意識が戻っているとのことであった。 話しかけようとするのだが、その姿を見ると涙が溢れてきてまともに話すことは出来ない。 もっとも話しかけることもないのだが。 とにかく「痛いか?苦しいか?」と聞いただけである。 後から考えると、そんなことを確認しても仕方ないのだが、それしか思いつかなかった。 本人は「痛い、痛い」と呻いてばかりいた。 もうあまり面会していても苦しませるばかりなので、この日は実家に戻ることにした。 手術自体はまずまず成功だったようである。 もちろん緊急事態には連絡を入れてもらうことになっていたが。 帰りの車の中で、兄と「なんとか一度、家につれて帰りたいものだ」と語らう。 医者の話によれば、おそらくいったんは回復するだろう、とのことだったのである。 ただし、癌の転移が進むより傷の治る方が早ければ、という条件付きで。 実家には誰もいない。 パーキンソン病を煩っている父は既に介護施設に預けてあった。 介護施設に正式入所するとなると、累積した順番待ちもあり、相当待たねばならないのだが、短い期間であれば預かってくれる。 2〜4週間程度のショートステイであれば、ケアマネージャーと呼ばれる調整役が各施設の空き状況を調べて何とかしてくれるのだ。 そのあたりの折衝も兄が既に手配を済ませていた。 今後、正式入所出来るまで何ヶ月かかるか分からないが、ショートステイをつないで急場をしのぐ計画である。 主を失った我が家が酷く寂しげであった。 もう両親はこの家に帰ってこられないかもしれない。 そこら辺にあるもの、何をみても悲しくなった。 物を見るとそれにまつわる思い出がよみがえってきて、涙が溢れてくるのだ。 家族の待つ家に兄が戻った後、私は一人実家に残った。 既に両隣の住人がいなくなってしまった我が家はやたらと静かである。 このときほど寂しいと思ったことは人生の中で他になかった。 <携帯電話> 話はやや前後する。 私は携帯電話を持たずに暮らす、数少ない人間であった。 一生持たないで暮らしてやろうと思っていた。 世の中、猫も杓子も携帯携帯というご時世になればなるほど、私は持たないことに喜びを感じていたのである。 大体からして、携帯電話なんか要らないんだ。 連絡がつかなければつかないで人間済んでいくものである。 連絡がつくから、何かしらやるハメになるのだ。 持たない方が断然楽であることは間違いない。 しかし、母が癌に冒されていると知った翌日の4月24日に、私は携帯電話を初めて買い求めた。 これからは緊急の連絡を受けることが多くなるだろう。 いざ母が死ぬという段になったら、連絡などつかない方がイイ、とは言えなくなった。 実際の話として、実家と東京を頻繁に往復するようになって、携帯無しでは連絡のつけようがなかった。 特に携帯メールはたいそう便利なものであることがわかった。 それでも私は携帯に使われるような人間にはなりたくないと今も思っている。 東京にいるときは持ち歩かない。 それはささやかな抵抗であった。 <手術後> 翌朝、兄と二人で面会に行くと、これから一般病棟に移すから、面会は後にしてくれと断られた。 驚くべきことに、胃全摘手術を行って24時間経つ前に4人部屋に戻されてしまうのである。 そのこと自体は術後の経過が順調であることを示しているとも言えるので、歓迎すべきことであった。 12時頃には4人部屋の一般病室で母に会うことが出来た。 顔色も非常に良く、とても余命わずかな人間とは思えない。 もっとも母は、とにかく「痛い」とばかり繰り返していた。 そりゃ痛いだろう。 胃を丸ごと取って、そのほかの部分も切ったんだから。 着衣をめくるとお腹に大きな傷痕があるのがわかる。 今どきの手術というのは皮膚を糸で縫合はしない。 ホチキスみたいな金具で傷口をバチンバチンと留めて、その上から透明テープをペロンと貼り付けておわりである。 手術時間を短くした方が体への負担も小さいのだろう。 そんな母に看護婦はこの日から、出来るだけ動いてください、と言ってきたそうである。 俄には信じがたいことだが、近頃は手術の翌日から動くように指導するそうだ。 動かないとかえって治りが悪くなるという。 なんとなく納得できる話ではある。 さすがにこの日、母は全く動かなかったが、翌5月1日には少し動いた。 さらに翌5月2日には10mほども歩いた。 いま思えば、この時期は幸せだったかもしれない。 癌に冒されるスピードよりも回復するスピードの方が圧倒的に早かった。 とても遠からず死ぬ人間とは思えない様子であった。 このまま完治してしまうのではないかと思いたくなる。 そんなはずはないのだが。 私の思いがどうあれ、母は確実に回復していった。 5月5日には自分でトイレに行き、水を飲むようになったのである。 もうすることも当面無かろうということで、この日の夜、私は東京へ戻った。 あんまり長い間留まっていると、余命が残り少ないことを悟られてしまう。 まだ母は自分が末期癌だとは思っていないのだ。 近頃の胃癌は結構治る。 死ぬにしてもそんなに早くないと思っている様子であった。 帰りの道々、私はこれから先、自分に何が出来るのかを考えていた。 あの調子ならいずれ一時退院できるかもしれない。 そのときは一緒に暮らそうと思った。 この際仕事はどうでもよかろう。 仕事なんざいつ辞めてもいいんだ。 この世界に私のことを心配してくる人間はもはや母一人しかいない。 母が死んだ後のことはどうでもよかろうと本気で思えた。 一緒に暮らすなら車に乗る必要がある。 おそらく頻繁に病院へ母を運ぶ必要があるだろう。 12年ほど車に乗っていないから、自動車教習所へ少し通わないとな、などと考えたりしていた。 もっとも、私には自動車学校に通うより先にやることがあったのだが。 というのも、私もまた胃が痛かったのである。 <胃カメラ> 母が癌だと知ってから、私はずっと胃が張ったような感覚に襲われていた。 別に食欲がないとか痛いというわけではないのだが、今まで経験したことのない感覚であった。 私は心配になったのである。 私もまたスキルス胃癌に冒されているのではないかと。 この張りはスキルス胃癌のせいで胃壁が厚くなっているからではないのかと。 そう思ったら心配になってきた。 心配でますます胃が痛くなってくる。 母を心配するより、まず私は自分の胃を心配する必要があったのである。 職場の診療所へいって内科の先生に相談すると、もう既に「こいつ小心者だな」という目で見られているような気がした。 スキルス胃癌は遺伝しないそうで、比較的若い層に多いとはいえ、私の年齢でかかる確率は極めて低いそうである。 スキルスが怖いから私はすぐにでもバリュームを飲みたかったのだが、医師は検査するにしても通常バリュームよりは胃カメラが先だ、という。 更に胃カメラやるまでもなく、まず胃薬を飲んで様子を見ましょうと言ってきた。 こちらの心配をよそに、医師は完全に私のことをストレス性の胃炎か何かだと思っているようであった。 しかし、私の不安は収まらない。 一週間様子を見ましょうと言われたが、我慢できずに5日後再び診療所を訪れ、胃カメラの予約を入れてもらった。 スキルスは増殖速度が速いので、すぐにでもやって欲しいのだが、そういうわけにもいかない。 予約は翌週の頭にしてもらった。 生まれて初めての胃カメラである。 のどに麻酔をしているとはいえ、直径1センチほどの管が口から胃袋に入っていくのはかなり気持ち悪い。 胃カメラが入るついでに空気も入っていくので、ゲップを吐いたまま栓が閉じないような感じが延々と続く。 ただし、事前に凄く苦しいと聞かされていたので、逆に思ったほどには苦しくもなかった。 胃カメラを飲んでいる間、ベッドに横たわっているのだが、目の前にモニターが置かれている。 そのモニターに私の胃壁が映し出されていた。 全く綺麗なものであった。 胃炎すら起こしていない。 ついでに胃癌の発生プロセスに関係しているといわれるピロリ菌がいるかどうかを調べるため、細胞の採取もおこった。 後日検査結果を聞きに行ったところ、ピロリ菌もいなかったそうである。 ちなみに母の胃からはピロリ菌が検出されたそうだ。 結局私の胃には全くなんの異常も見られなかった。 単なる気のせいだったのである。 医師はバリューム飲みますか?と尋ねてきたが、さすがにその必要がないことは明白であった。 私が東京で自分の胃を心配していた頃、母はめざましい回復を遂げていた。 遠からず食事も取れるようになるであろう。 食事が取れるようになれば、抗がん剤治療を始めなければならない。 5月10日には母の病状について医師から説明があった。 例によって私はその場に立ち会っておらず、それを兄から聞かされただけである。 <病状の説明> 医師はもうのっけから母が末期癌であることを強調して話したそうだ。 やはり過大な期待を持たせてはいけないと思ったのであろう。 末期癌であることを前提に、如何に生活の質(Quality of Life)を上げていくかという話になる。 食事が取れるようになり次第、抗がん剤投与が開始されることとなった。 抗がん剤は通常2種類の薬を併用する。 組み合わせには何種類かあるが、私の母の場合は飲み薬のTS-1と点滴で投与するタキソテールが用いられた。 タキソテールを一回打った日から2週間TS-1を飲み続けることになる。 その後一週間休薬期間をおく。 抗がん剤を投与すると白血球が減少するため、回復期間をおかなければならないそうだ。 3週間でワンクールの投薬スケジュールになる。 果たして何クール続けることが出来るのか。 抗がん剤はいずれ効かなくなるため、長く続けていれば組み合わせを変えることもあるそうだ。 私はこの段になってもあまり真剣に治療方法を考えていなかったが、兄は熱心に勉強していた。 ネットで治療方法を既に調べ上げていた兄は、お腹の中に直接抗がん剤を投与する治療方法についても医師に相談したようだ。 もっともあんまり医師は乗り気でなかったようである。 後々になって私もこの医師と話して感じたことには、どの道この人(母)は死ぬんだから、あんまりガツガツ治療しても仕方なかろう、と思っているように見受けられた。 医師がいうには抗がん剤が効かなければ2ヶ月ぐらいで、効いた場合でも50%の人は半年で亡くなる、という話であった。 死は避けられない。 しかし、辛うじて希望の持てる話もあった。 おそらく一度は回復して、退院できるだろう、というのである。 食事もある程度は取れるようになるだろう、と。 この夜、私は兄からの電話で医師の診断を聞いた。 そして、退院できたら何処かへ旅行にでも連れて行こうと二人で話し合った。 絶望的ではあるが、新しい目標が出来たのである。 何をして良いのか分からない中で、これは凄く有り難いことであった。 <抗がん剤を投与されるということ> 5月11日から母は普通食を食べるようになった。 もっとも通常の半分だしてもらって、その2割3割も食べれば良い方、という感じではあったが。 それでも食べられるだけ大したものだ。 食べられるようになれば、いよいよ抗がん剤の投与が始まる。 スキルス癌の増殖スピードは極めて速いので、少しでも早く始めた方が良いのだ。 となれば、抗がん剤の投与を本人に伏せておくわけにはいかない。 当然、抗がん剤には副作用があるのである。 吐き気や倦怠感、食欲不振など様々な副作用が現れるのに、隠しておくことなど出来るはずもない。 しかし、一つ困ったことがある。 抗がん剤を投与するということ自体、もうかなり絶望的な状況にあることを意味している。 ちょっと知識がある人なら、死の宣告を受けているようなものだ。 かつて定年まで病院に勤めていた母なら、当然知っているだろう。 兄は抗がん剤治療の話を切り出すのに、相当気を遣ったようである。 このあたりに私と兄との見解の相違があった。 私は母が自分の死に耐えられる人間だと思っていて、余命半年なら半年で伝えてしまってもイイと思っていたし、実際私は「おっかさんよ、あんだけの癌でそんなに長く生きられると思うなよ」と普通に話していた。 しかし、兄はかなり気を遣っていて、余命を知りたがる母に曖昧な返事をしていたようである。 この相違はいよいよ隠し難い事態になるまで変わらなかった。 まあ、いずれにせよ、私のいないところで無事に抗がん剤治療を行うことが母に伝えられた。 抗がん剤治療を受けることには割と素直に従ったようである。 点滴を入れやすくするための導入口を作る手術を受けることにも異存はないようであった。 果たしてどの程度自分の病状を理解していたのか、今となってもよく分からない。 この事はある意味幸せでもありながら、後々まで我々を苦しめた。 <抜け作医師> 抗がん剤治療を開始するにあたっては、兄だけでなく母を交えて医師と今後の治療方針についての話し合いがもたれた。 その際、担当医は摘出した胃袋の写真を机の上に置いていたそうだ。 母はその写真をめざとく見つけてしまったのである。 これは参った。 かつては母は栄養士として病院に30年ほども勤めており、本来ならば見るはずのない摘出された胃をたくさん見ているのである。 今はそんなことはないと思うが、昔の病院というのはプライバシーの管理などはないに等しかった。 珍しい病気の人がいると看護婦が教えてくれて、こっそり見に行ったりしていたそうである。 癌で切除された胃なども例外ではなかった。 今まで見てきた胃と比較すると、病状が分かってしまうかもしれない。 母が見た自分の胃は全面が青に着色されていたそうである。 がん細胞の部分を青くした写真なのだ。 見れば一目瞭然、胃の大半が癌に冒されていたことが分かってしまうではないか。 そんなものを机の上に置いておくなよ、この抜け作! これから面談すると分かっているのに。 写真を見て、母はたいそうショックを受けていたそうである。 無理もない。 しかし、私はこの話を兄から聞かされて、逆にそれもイイだろうと思い直した。 これで自分の死期を悟っただろう。 残りの時間を有効に使えて結構な話じゃないか、と。 もっとも、このあとも母はどういうワケかすぐに死ぬとは思わなかったようである。 あれほどの癌に冒されていて、転移していないはずはないのに。 全くもって不思議なことであった。 このときの面談では医師から、抗がん剤治療は通院で可能だと伝えられた。 食事が出来るようになれば、いつ退院してもいいという話であった。 人間、胃がなくても十二指腸があれば、消化は出来るんだそうである。 癌の進行具合はともかく、とりあえず退院もそう遠くないように思われた。 <梅干し> 話はまたもや前後する。 抗がん剤治療が始まる前のことである。 母は病院の食事がでは味が足りず、梅干しを食べたがった。 母の面倒を見てくれている叔母さんが買ってきたものをちょっとだけ食べようとするのだが、これには兄が猛反対した。 手術して間もないのに、そんな刺激物を食べてはいけないというのである。 医者に確認を取るまでは食べるな、と兄が頑なに止める。 なんという腹の据わってない男だ、と私は兄に舌打ちしていた。 どうせ死ぬんだから、好きなもの食わしてやればいいじゃないか。 梅干しが体に悪いなんて聞いたことない。 私は兄の見ていないところで、食え食えっつって母に食わせていた。 実際別に構わないそうである。 一事が万事この調子で、私と兄のスタンスには大きな開きがあった。 私は何となく、自分は腹が据わっていて、兄は腹が据わっていないと思っていた。 しかし、後々になってみるとこれは、腹が据わっている据わっていないの話ではなかった。 やはり、どの程度真摯に母のことを思いやっていたかという話であったと今は思う。 のちに母が死ぬときになって、自分はまるで腹など据わっていなかったことを思い知らされるのである。 <副作用との闘い> 医師との面談後、すぐに抗ガン剤治療に入った。 タキソテールを点滴で投与して、その日から2週間毎食後にTS-1を飲む。 本来ならばその後に一週間休薬期間をおいてまたタキソテール、という具合に3週間ローテで回していく。 しかし、抗ガン剤治療は同時に体の抵抗力も奪っていく。 そのため頻繁に血液検査を行い白血球の量を検査する。 母の白血球は治療をはじめて5日目には減少しているのが確認され、その翌日には猛烈な吐き気に襲われるようになった。 余りにも副作用が強いので、一週間で投薬を一時中止することに。 副作用が強かったのは、母の体が比較的若かったからだろう。 抗ガン剤は細胞分裂の活発なものを狙ってやっつけるらしい。 もちろん癌だけじゃなくて正常な部分までやっつけてしまうのだが。 よく母は「舌がやめる(=痛い)」といっていたが、舌は細胞の修復力が強いから抗ガン剤にやられてしまうんだろう。 舌がやられて味覚が麻痺してしまい、何を食べても砂を噛んでいるようだと、いつも嘆いていたな、そういえば。 ただし、スキルス癌は増殖が早い分だけ、比較的抗ガン剤が効きやすい癌でもあるんだそうだ。 母が苦しめば苦しむほど、スキルス癌はめざましく減っていくはずである。 本来なら苦しんでも投薬を中断してはいけないのだが、白血球の減少が確認されたため止めざるを得なかった。 白血球が減少すると、それはそれでまた別の病気を引き起こしてしまうからだ。 ここから先、多少なりともモノが食べられた10月の半ばまで、白血球の数を睨みながらの投薬が続いていくことになった。 抗ガン剤を飲み始めてから1週間目あたりが一番苦しいらしく、まったく食えない日が何日か続くこともあったようである。 投薬開始後、10日もすると体が慣れてくるらしくだんだん楽になっていく。 薬が効かなくなっているのかもしれないが。 私はこの時期、抗ガン剤の副作用がきつい週末には帰省しなかった。 ただ苦しんでいるだけの母に会いに行っても甲斐が無かろうと思っていたのである。 従って、私は母がホントに苦しんでいるところをあまり見ていない。 兄からメールが来る度に、ホンマにそんな苦しんどるんかいな、と疑っていたぐらいである。 <それでこそ我が母> 抗がん剤治療を行っていても、ずっと苦しいワケじゃない。 3週間のうち10日ほどは比較的元気である。 ある程度は食事も取れる。 元気なときの母はたいてい人の悪口ばかり言っている。 この人は昔からそうであった。 父はおろか、自分の面倒を見てくれている叔母のことまで、悪口とまでは言い切れないが余計なことを言う。 身内でない人の話であれば尚更である。 職場の人の話でも、この人はいい人だという印象の話を聞いたことがない。 母の付き合う人はたいてい女性である。 女性の同士は親友たり得ない、という説があるが、果たしてどうだろうか。 女性は同性がみんな敵だから、親友にはなれないというのだ。 果たして私の母が女性だから人の悪口ばかり言うのか? おそらく違うだろう。 単に彼女の性根が卑しいからだと私は思っている。 昔から我々兄弟は「人の不幸は蜜の味」と聞かされて育った。 母は自分がそういう質だから、自分の不幸を人に知られるのがイヤで、自分が入院していることを必死に隠していたぐらいである。 家の面倒を見てくれていた叔母にも電話に出るな、とか、家の外に出るな、と指令を出していた。 兄も入院用の荷物を家から運び出すときに、玄関先で人に見られるな、と厳命されていたようである。 抗がん剤治療が2周目に入ったころには、母はかなり憎まれ口をきけるようになっていた。 そんな母を見て、私はそれでこそ我が母だと頼もしく思っていた。 私はそんな母が大好きだったのである。 憎たらしいことが言えるようになれば、退院も近いであろう。 私はいよいよ自分の出番が近づいているのを感じていた。 <母の秘策> 今年の父の日は6月15日であった。 その2週間前の6月1日に私は母を見舞っている。 そのとき母は私に秘策を授けた。 おまえは何にもしていないから、兄に贈り物をしておけ、というのである。 私は上司にお歳暮一つ送ったことのない人間なので、まさか兄に贈り物をするなどとは思いもよらなかった。 この時期の兄は大変であった。 母が入院手続き、保険の手続き、父を施設に預ける手続き、その他全てを兄が一人で行っていた。 もちろん、通常の仕事はこなした上でである。 私はまるで他人事であったが、おそらく相当ストレスが溜まっていただろう。 それを鋭く察知した母は、兄にお礼をしておけ、というのである。 更に母は父の日のプレゼントを贈るようにも指示してきた。 我々兄弟の共通認識として、「おっかさんの看病はしたいが、おとっつぁんの面倒は看たくない」、というものがあった。 週末にしか来ない私は「おっかさんの看病をする」という美味しい思いしかしておらず、それが兄の不平につながっていたかもしれない。 そこで母は、父への対応もしますよ、という態度も見せろ、というのである。 自分が介護していたときの経験から髭剃りが大変なので、電気シェーバーがいいのではないか、とまで具体的な指示までして見せた。 なるほど、人のイヤらしさをトコトン知り抜いた母だけあって、いい指摘をする。 私は母の秘策を受け入れた。 この秘策は半分当たったが、半分は外れた。 兄に送ったビールは大変喜ばれたが、父に送った髭剃りは不評であった。 介護施設に正式入所すれば話は別なのだが、ショートステイの場合、持ち込む荷物をいちいち申請しなければならない。 また施設で使っている髭剃りと別のものを使ってくれ、と頼むのがなかなか辛いのだそうである。 施設を移るとまた頼み直さなければならないし。 お前はただ送りつけるだけだ、人の苦労が分かっていない、などと詰られるハメになった。 母が私に授けた秘策の効果はプラマイゼロといったところであった。 <私の出番> 手術からこっち、私はほとんど何もしてない。 東京にいるから仕方ないのである。 しかし、私は私なり考えていた。 入院中の母に私が出来る事は限られているだろう。 私の出番は退院してからである。 胃のない母を実家に一人で置いておくわけにはいかない。 兄の家で引き取る手もあるが、やはり人間最後は自分の家で暮らしたいだろう。 退院したら私は母と一緒に死ぬまで実家で暮らすつもりであった。 今は有り難いことに「介護休業制度」というものがある。 通常休職というのは、勤めている本人の事情でしか取ることが出来ないが、「介護休業制度」では家族のために最大半年で休職できるのである。 もし母が半年以上生きてくれるのであれば、そのときは仕事なんか辞めてしまえばいいと思っていた。 どうせ母が死んでしまえば、私のことを心配する人間は地上に存在しないのである。 後は野となれ山となれ。 自分一人であればどうにでもなると私は思っていた。 実はこの当時、私は株で少しばかり利益を出していた。 下がり基調の中で現物しか扱えず、しかも仕事があるから日中は取引できないにもかかわらず、である。 下がり基調でこれぐらい上手く立ち回れるなら、上がり相場だったらもっと儲かるな、などと思い、仕事を辞めても大丈夫なような気もしていたのである。 私は退院後の暮らしについて母と話した。 もちろんすぐに死ぬ前提では話せない。 兄との兼ね合いもあって、余命を明示は出来なかった。 6ヶ月後も生きている前提である。 仕事なんか辞めたって構わないんだから・・・と話してはみたが、仕事を辞める話になると母は頑として拒絶した。 男は仕事が大事だというのである。 入院する前だって叔母の助けを借りて何とか生きてたんだから、一人で大丈夫だと言ってきかない。 自分が死ぬことがやはり分かっていないようであった。 とりあえず、仕事を辞める話は取り下げて、介護休業で何とかなる分だけは一緒に暮らすことで手を打つことにした。 いざ介護休暇をとるとなったら、やはり半年休むとまでは言えず、結果的には3週間しか取らなかったのだが。 辞めてやる、と思っているときと、復帰しようと思っているときでは自ずと勢いが違うのである。 制度があっても勢いがなければフルに使うことは出来なかった。 それ以外は兄夫婦や叔母が面倒をみることになるだろう。 母が止めてくれたおかげで私は今も仕事に就いたままである。 まさか100年に1度の金融危機に当たってしまうとは・・・。 相当織り込んでいると思っていたラインから株価はぐんぐん下がっていった。 日経平均株価を目にする度に母の愛を感じずにはいられない。 もっとも私の出番はかなり後ろにずれ込むことになった。 なかなか母は食べられるようにならなかったのである。 <退院に向けて> 6月に入ってから、自分のタイミングで退院してください、という状況になっていた。 しかし、なかなか本人は退院したがらなかった。 というのも、ほとんど食べられなかったからである。 医師の診断によれば、食べられないはずはない、とのことであった。 食道と腸が直接つながっているため、一度にたくさんは食べられないが、少しずつであれば問題ないはずだ、と。 レントゲンを撮っても、CTを撮っても、食べることに支障があるようには見えなかったそうである。 抗がん剤の副作用のせいで、舌がやめる、砂を噛んでいるようだ、食べたくない、と母は言うのだが、食べたくないのと食べられないのとは違う。 食べられるのなら食べろと言って聞かせても、ほとんど食べなかった。 原因が分からないので、心因的なものではないか、と疑われたぐらいである。 結局母は最後まで満足に食べることは出来なかった。 あれほど食べることが好きだったのに。 最後まで原因は分からず終いであった。 ついに母が退院したのは7月12日である。 もうどこかで踏ん切りをつけなければ致し方ないところまで来ていた。 もう少し早く食べられるようになっていれば、残りの人生を楽しむことも出来たろうに、と多少後悔がないでもない。 抗がん剤のための通院は点滴が3週間に一回、診察が週に一回、と大した回数ではない。 しかし、食事が取れないため、当初は毎日栄養点滴を打ちに病院へ通うことになると思われた。 となれば、病院への送り迎えが必要である。 私は12年ぶりに車に乗らなければならなかった。 <自動車> 私は基本的に車が嫌いである。 どういうワケか、子供の頃から車に憧れをもったことなどなかった。 大人になってからも、乗りたいと思ったことはなかったな。 車にステータスを感じるような感性を私は持ち合わせていないのである。 ただし、就職浪人をしていた頃、車の免許ぐらい取っとかないと将来困るだろうな、と思ったことがあって、免許は取得していた。 オートマ限定だけど。 今までの総運転距離は5Kmぐらいで、もう12年は運転していなかったろう。 この状態で母を病院に送り迎えするのは危険である。 私は自動車学校へ5時間ほど通った。 5時間で2万5千円ぐらいだったな、確か。 今どきの自動車学校というのは大変腰が低い。 少子化で生き残りが厳しいからなのか。 私は怒られると思うと萎縮して余計にミスるタイプだが、全然怒られないので逆に拍子抜けした。 既に免許取得しちゃってるから、怒っても仕方ないのかもしれないが。 行く前は凄く心配で、行くよ行くよといいながら、なかなか行かなかったのだが、行ってみたら全然大したことはなかった。 まずまず無難に練習を終えたのである。 しかし、実際車道に出ると全く余裕がなかった。 人を轢かないように、他の車にぶつからないように、とそればかり気になって標識が目に入らない。 一方通行とかに入ってしまわないかと心配で仕方なかった。 のちに母を送り迎えし、買い物に連れて行くようになって、私は必要最小限の道だけは覚えた。 後ろに乗った母に道案内をさせて、注意が必要な交差点などのレクチャーを受けたのである。 更には頻繁に通うユニーやバローの出し入れしやすく、出入りの少ない駐車場の位置なども教えてもらった。 私は今も母から教えて貰った道だけを通り、母から教えてもらった駐車場だけを使っている。 <カツラ> 退院を前にして、母にはやらねばならないことがあった。 カツラを作る必要があったのである。 抗がん剤の副作用で、母の髪はかなり抜け落ちていた。 つるつるになるまではいかないが、女性としてはちょっと恥ずかしいだろうという感じになっていたのである。 ちなみに医師からは、いずれつるつるに近いぐらいまで禿げて、その後また生え揃ってくる、と教えられていたそうだ。 おそらく生え揃うまで生きてはいられないだろうに。 医者も、生え揃うまでは生きられない、などと余計なことを言うわけにはいかないだろうが。 ともかく、母は老いたりとは女性である。 さすがに禿げた頭は恥ずかしかったようで、病院内では常に帽子をかぶっていた。 外に出ることになれば、常に帽子をかぶっているわけにもいかないだろう。 カツラを作るのも、退院に向けての楽しみの一つであった。 病院の方も慣れたもので、出入りのカツラ業者を紹介してくれた。 抗がん剤治療を行っているのはなにも母だけじゃない。 こういうケースは頻繁にあるわけである。 カツラはオーダーメイドになる。 値段はそれこそピンからキリまであるのだが、母は二十数万のものを買ったようであった。 カタログで髪を選ぶと業者がやってきて、母の頭にフィットするように形成する。 さらには頭に載せた状態で綺麗に見えるように散髪してくれるのである。 のちに私は母と暮らすようになって、毎日のようにカツラをかぶった母を連れて買い物に出かけた。 まずまず良くできたカツラで、ちょっと見た目には大病を患っているようには見えなかったな。 二十数万の価値はあるように思えた。 <家政婦は見た!> 母の娯楽の最たるものはテレビ、それも夜9時からの2時間ドラマである。 火曜サスペンス劇場や土曜ワイド劇場ばかり観ていたイメージだ。 実家へ戻ったら母には何か娯楽が必要だな、と考えているとき、私はたまたま市原悦子の「家政婦は見た!」シリーズが最終回を迎えるのを知った。 調べたところ、最終回は7月12日である。 これは是非見せてやりたいと思った。 生きているうちに最終回を観られるんだから、結構な事じゃないか。 そういえば、うちの母はドラマの中の市原悦子に似てないこともないな。 あのイヤらしい感じが特に。 実際ところ、母がどれほど「家政婦は見た!」シリーズが好きなのかよく知らないのだが、私は勝手に盛り上がっていた。 母が退院したら観られるようにと思って、私は地元のケーズデンキで地デジテレビを買ったのである。 死ぬ直前に最終回だなんてこれも何かの縁に違いない、などとお金を払いながらますます私の気分は盛り上がっていった。 しかし、私が買ったテレビで母が「家政婦は見た!」の最終回を観たわけではない。 母はちょうど「家政婦は観た!」が放映された日に退院し、兄夫婦の家に泊まっていたため、私が買ったテレビは活躍する機会がなかったのである。 ただし、放送自体は観たようだ、兄の家で。 特別観て面白かったとか、そういう感想は聞いていない。 タイミング的に母は観られないかもしれないと思って録画しておいた「家政婦は見た!」の最終回が今も私のDVDレコーダーに残っている。 観ようかな、とも思うのだが、未だに観ていない。 観てはいけないような気がするのだ。 かといって消すことも出来ない。 観ていない、ということも含めて、母が生きていたときのそのままにしておきたい気分である。 <兄夫婦のもとへ> 退院した母はとりあえず、兄夫婦の家にやっかいになることになった。 さすがに母を一人にはしておけないし、息子の立場としては叔母に預けっぱなしには出来なかった。 はじめ多少抵抗はあったが、最終的には母も素直に同意してくれたようである。 兄夫婦が暮らす家は、両親が建てた家である。 母が土地を買い、父の退職金で家を建てた。 その意味では母はこの家に住む資格を十分に持っていたはずである。 しかし、やはり居心地は悪かったようだ。 もう十数年にわたって兄夫婦が暮らしており、二人の姪達は自分の家だと思っている。 そこへ部外者が入ってきたような違和感を感じていたようである。 ましてや上の姪は難しい年頃だ。 兄嫁さんはある程度気を遣ってくれていたようだが、それではどうにもならない居心地の悪さであった。 唯一の救いは下の姪がまだ小さく、母を遊び相手にしてくれたことであった。 私は感謝の気持ちを込めて下の姪に「ぽにょ」のCDを贈った。 もっとも当人は体がえらくて、延々と一日中遊びに付き合わされるのが辛かったようだが。 7月16日から20日まで私は実家で母と暮らした。 このときはまだあまり不満を述べておらず、むしろ感謝の言葉を発していたが、8月に入って再び私と暮らし始めたときには、もうあっちはイヤだ、と言ってきかなかった。 気の毒なのは兄である。 さんざん母の面倒を見てきたのに、母と共に暮らす、という言わばご褒美をあまり享受できなかった。 家庭を持っている者の辛さである。 私は美味しいところだけを貰い続けた。 <美味しくないところ> 私と兄は母が大好きであった。 但し大好きと言っても、別にマザコンというわけではない。 私は一人暮らしを始めてから16年間で、おそらく合計60日程度しか実家に帰っておらず、兄も実家に寄るのは何かしらの便益を求めてのことであった。 飲み屋まで送り迎えして、とか、金貸して、とかね。 それでもいざとなれば、やはり母の看病は是非したい。 しかし、問題は父の方である。 我々は父を「とっつぁんパワー」と呼び、バカにしていた。 なぜ「パワー」なのかはよくわからない。 命名したのは兄である。 高校の教師とは思えぬほどのいい加減さ、知性の輝きのなさ、耐え難い形式主義に、我々は辟易していた。 そんな父がパーキンソン病なり、やがて頭もボケ始めた。 私は東京にいるということで、全く知らんぷりを決め込んでいたが、母が倒れた今となっては誰かが面倒を見なければならない。 幸いにしてケアマネージャーが介護施設にショートステイを斡旋してくれたものの、やはり煩雑な手続きやミーティングは行わなければならないのだ。 その全てを兄がやった。 美味しくないところを一人で負担したワケである。 私は面会に行くことすらイヤだった。 私が誰かすら分からなくなった人間に面会に行ってどうなるというのか。 無駄である。 しかし、帰省する度に兄は私を無理矢理面会に連れていった。 こっちも全て押しつけている後ろめたさがある。 行かざるを得なかったし、これは現在進行形で続いている。 どうも兄は私に「美味しくないところも味わえ」と言いたいようだ。 これは甘受せざるを得ない。 <花火大会> 8月2日。 この日から8月24日までの三週間、私は実家で生活することになっていた。 この8月2日は花火大会の日でもあった。 記者発表によると人出が40万人というから、かなり大きな花火大会である。 母との思い出作りをしなければならない我々には、いきなりの大イベントであった。 しかし、よりにもよって私が帰ってくる日にやらなくてもいいじゃないか、という気もした。 というのも、駅から実家へ向かう道は人と車で溢れかえっており、タクシーを使ってもなかなかたどり着けなかった。 タクシーの運ちゃんが通な道を選んで何とか実家に付いたが、タクシー代は通常の2倍かかってたな。 花火大会をベストポジションで見られる場所まで我が家から歩いて15分もあれば着く。 それほど近い場所なんだから、毎年のように花火大会を観に行っていたかというと、全然そんなことはなかった。 私は家族と花火を見に行った記憶がほとんどない。 おそらく小学生以来なのではないか。 私は子供の頃から外出するのが嫌いであった。 夜7時を過ぎ。 歩くスピードが違うであろうということで、私と母は兄の家族より少し早く出発した。 私は母と夜道を橋へ向かって歩いた。 座り込んで見たい連中は河原に早い時間から陣取っているが、ちょっと見るなら橋の上が最高だ。 たくさんの人が同じ方向へ歩いていく。 既に手術から3ヶ月。 母はかなりしっかりと歩けるようになっていた。 カツラをかぶると、ちょっと死の病に冒されているようには見えない。 橋にたどり着くと、そこは人で溢れかえっていた。 それも大半が若者である。 一体どこにこれほどの若者がいたのか。 ここいら辺には若者など数えるほどしかいないのに。 おそらくは遠くから来た連中だろう。 今どきの若者はちょっと怖い。 私は何かあったらいけないと思い、母を守りながら橋のたもとに進んだ。 橋のたもとには木が植えられており、縁石で囲まれていた。 その縁石に座れる隙間を見つけた母はそこに腰掛けて花火を観た。 隣に私が座るスペースはないので、私は少し離れたところから母を見守る。 花火大会といっても単調なものである。 ただ花火が打ち上げられているだけだ。 確かに美しいことは美しいのだが、正直これを見るために40万人もの人が集まってくるというのはちょっと信じられない。 私は今までこれを見に来なかった自分に納得していた。 ものの30分ほどだったろうか、母が花火を見ていたのは。 やはりずっと体を立てているのは辛いようで、早速帰りたくなったのである。 姪達を連れている兄を置いて、母と私は歩いて家まで戻ることにした。 花火大会は最後にクライマックスがやってくるから、この時間では人の流れと逆方向になる。 母と私は人を避けつつ、ゆっくりと家まで歩いた。 途中、わらび餅に気を惹かれたようであったが、どうせ食べられないと母は諦めた。 いま思えば、夜道を二人で歩いたのはこのときが最後であった。 それがこの花火大会の成果といえば、成果だったかもしれない。 <断りきれぬお見舞い> 母は入院したことをずっと周囲に伏せていた。 兄にも口止めしていたし、母が入院している間実家を守ってくれた叔母にも「お客が来ても出るな」、と命じていた。 とはいっても、やはり人の口に戸板は立てられぬもので、母が退院すると毎日のように誰ぞがお見舞いにやってきて閉口した。 閉口した、というのには二つ意味があって、一つはお見舞いされる方の気持ちなど考えてはくれない、ということである。 母は抗がん剤の副作用もあって体が辛いのに、お見舞いに来た人の相手を次から次へとしなければならなかった。 私は適当にあしらえ、と言って聞かせるのだが、実際にはそういうわけにも行かない。 長々と話し込んでいく人もいた。 母は、「病気だと知ってしまったらお見舞いに行かないわけにはいかない。人間そういうもんやで。だから教えたくなかったのに・・・。」とぼやいていた。 2つめはお客が何かしら食べ物を持ってくることである。 それも大量に。 母には胃袋がないのである。 そんなに持ってきてどうする。 日持ちのするものならまだしも、パンとか野菜とか持ってこられても困ってしまう。 私は偏食家だから食べられないのである。 家には日に日に誰も食べない食料が増えていった。 私は腹が立ってきて、いい加減貰うな、断れ!と母を責めたが、母は決して断らなかった。 そして言うのである。 「お見舞いに行くとなったらなんか持ってかんわけにはいかん。人間そういうもんやで。だから教えたくなかったのに・・・。」 <私の仕事1> 介護休暇を取るにあたっては、申請書に理由を記載しなければならない。 私は理由欄に「ほとんど食事を取ることが出来ないため、毎日点滴を受けなければならない。そのため病院まで毎日送り迎えする必要がある。」と記載した。 だから自動車学校へ通っていたのである。 が、実家へ帰って十日でこの理由は消滅してしまった。 8月11日に診察を受けると医師から、血液の栄養状態が良いから、点滴しなくてイイですよ、と言われたのである。 母はせいぜい1日500Kcal程度しか口から摂取していなかったのに。 3ヶ月もの入院中、毎日1500Kcalの点滴を受けていたので、血液状態が良くなったのだろう。 とりあえず、栄養状態がイイうちは点滴を止めることになった。 これによって、私の当初の仕事は消滅した。 その代わり新たな仕事が生まれたのである。 点滴を打たない以上、出来る限り食わせる。 これしかない。 いずれ訪れる深刻な闘病生活に備えて体力を維持しておかなくては。 母の体重は入院した時点で55Kgほどだったそうだ。 1ヶ月ほとんど何も食べられなかったのに55Kgもあったことは、もとが如何に重かったかを物語っている。 退院時点で体重は50キロを少し上回るぐらい。 私は自分の仕事をここから減らさせないことだと定めた。 早速私は新しい体重計を購入した。 退院してからも母は抗がん剤治療を続けている。 1クール3週間で、薬を飲み始めて3日後ぐらいから10日後ぐらいまでが非常にきついようだ。 体がだるいし、吐き気も出る。 しかし、何にも増してきついのは、舌がやられることである。 抗がん剤は分裂が活発な細胞を狙って攻撃するからだろう。 私は特別な知識を有しているわけではないが、舌はちょっとぐらいヤケドしてもすぐに治るから、きっと「治癒力が高い=細胞分裂が活発」なのではないか。 母が言うには、舌が常にビリビリとしびれており、味覚が変わってしまうらしい。 そのため、以前は好きなものであっても全く美味しく感じないんだそうだ。 舌がやめる、とか、砂を噛んでいるようだ、とか言い訳して、放っておくと食べようとしない。 そこでは私は無理矢理食わせた。 一時期モノが食えなくなった父のために「ラコール」という液状の栄養剤が買い置きしてあったので、それに色々なモノを混ぜて飲ませた。 ミキサーにラコールとバナナを入れたり、母が好きなかき氷をませたりして、とにかく飲み込ませた。 本人は凄く嫌がっていたが、私は楽しかった。 人にモノを食わせるのは非常に楽しいのである。 これは全くの余談だけど、世の中には食わせることを生き甲斐にする人達がいる。 よくテレビ番組などに、自分で家から出られなくなってしまった超肥満体の人が紹介されてるけど、ああいう人は自分一人では食えない。 食わせている人がいるのである。 食わせることが楽しい、という感覚はどうも割とよくあるらしい。 比較的状態が良いときはもちろん普通のモノを出来るだけ食べさせるようにした。 特に必要なのはタンパク質である。 毎日二人で買い物に出かけては、食べられるものを探した。 母はホッケが好きだったな。 好きというかホッケなら食べられたのである。 サワラみたいな光りものは油がきつくて駄目だった。 どうも全般的に油っぽいモノは受け付けないようで、肉もあんまり食べようとはしなかったな。 ホッケは大抵3枚組で販売されており、母一人では食べきれないので、大半は結局私が食べた。 私は人と一緒に物を食べるのが嫌いで、子供の頃からあっという間に食べて席を立ってしまったので、母とゆっくり食事をした記憶がない。 この夏、母と一緒にホッケを食べたことは、私のもっとも幸せな記憶の一つとなった。 <私の仕事2> 私は物を捨てることに喜びを見出していた。 物に対する執着を捨てることが如何に自分を解放していくか、ということを私はここ数年強く感じていたのである。 また、仕事を辞めてやろうと思っていたこともあり、出来るだけ物を消費しない生き方を身につけようとも思ってきた。 実際、収入に比して支出が極めて低いにもかかわらず、私は全く不自由を感じていなかった。 むしろ楽しいのである。 一方で母は物を溜め込む人間である。 子供の頃貧しかったせいか、絶対に物を捨てない。 しかも、ヤケに無駄な物を買う。 必要なくてもお買い得だと買ってしまう上に、後で使うかも、と同じものを複数個買ってしまう人間であった。 共働きで、夫婦別々に資産を管理していたせいか、父の目を気にもせず散財していたようである。 家の中は当然物で溢れていった。 私が一人暮らしをするようになると、私の部屋に荷物が溜め込まれ、祖母が死ぬと祖母の部屋は荷物で埋まっていった。 父が惚けて2階の寝室を使わないようになると、寝室にも物が溜め込まれた。 家の中のみならず、父の車を廃車にした後の車庫にもカラーボックスが積まれていった。 人がいなくなればいなくなるほど、スペースが空けば空くほどに、我が家には物が溜め込まれていったのである。 そういったわけで、我が家がガラクタだらけである。 私は母と暮らすこのチャンスになんとしても物を捨てさせようと思った。 それが私に課せられたミッション。 私はことある事に、「あんなに凄い癌で転移していないわけがないだろ。そんなに長いこと生きられると思ってはいかん。どうせ死ぬのに物なんか溜め込んでどうするんだ?」と言って母に物捨てさせようとした。 さすがに余命をハッキリとは言えなかったが。 はじめは母も頑強に捨てることを拒否していたが、そこは何とか説得した。 次第に、「わたし、なんでこんなにモノ買ってたんやろ」と言って反省するそぶりを見せ始めたのである。 やがてモノを捨てるようになった。 といっても、いちいち捨てる物を吟味するので、ちっとも進まない。 お菓子のスチール缶一杯に溜まったボールペンを使えるモノと使えないモノにわけたりするのである。 「あんた、残り少ない命をそんなことに使っとったらいかんで。エイヤッと捨てな。」と説得したが、どうにも駄目であった。 そんなペースだから、ちっとも片づかなかった。 私が気になっているモノの一つに鉢植えがあった。 母はロクに面倒もみないくせに花を買ってきては、枯れた鉢植えをそのまま庭に放置しておくのである。 庭には雑草の生えた鉢植えが溢れかえっていた。 私はこれも捨てさせたかった。 なかなかうんと言わないので、一部は私が勝手に捨ててしまったが。 何日のことだったか、私がいつものごとく鉢植えを捨てるように説得すると、「捨てたらいかん、あじさいの種を蒔いたから」と言って母は窓から庭を眺めた。 「咲くまで生きとれへんかもしれんけど。ふふふ。」と笑う母に、さすがに捨てろとは言えなかった。 <私の仕事 番外編> 今年の8月は前半天気がよかった。 日差しも驚くほどに強かった。 毎日のように布団を干してはフカフカ感を満喫していたぐらいである。 当然洗濯物もよく乾く。 洗濯もほぼ毎日やった。 早く起きれば私が洗濯をしたし、寝坊すれば母が大抵は洗濯を済ませていた。 このころは母もまだまだ元気で、二階の物干しへ一人で階段を登っていったぐらいである。 お盆が近くなったある日のこと、私は洗濯物を抱えて物干しに登っていった。 登り切ったときにはいつもの物干しのように思えた。 私は特段いつもと変わりなく洗濯物をハンガーに掛けていって、ふと周りを見て驚くのである。 私の周りには蜂が飛んでいた。 ざっと見たところ10匹以上である。 蜂の密度の高い方に目をやると、物干しとお隣さんの屋根が隣接する部分の軒下に蜂が巣を作っていた。 昨日までは気づかなかったのに・・・。 しかも、すごく近い! 私はびびって、干したばかりの洗濯物を急いで回収し、そーっと階段を下りた。 参った。 今はまだ蜂を作り始めたばかりのようだが、あの調子では今後近寄れなくなってしまう。 物干しに上がるのも母にとってはいい運動になるというのに。 なんとしてもあの蜂を退治しなければならない。 蜂は見たところ足長蜂の一種のようである。 あまり攻撃性は高くなかった。 私は思い切り巣に近寄って、手元にあったキンチョールスプレーをかけてみたが、全然効かなかった。 やはり蜂には蜂専用の殺虫剤が必要らしい。 そこで名前は忘れてしまったが、蜂・虻専用のバズーカタイプの殺虫剤を買ってきた。 こいつは10m先からでも効くという。 誰も住まなくなったお隣さんの敷地にちょっとだけ足を踏み入れて、下から噴射してやったところ、ウソのように蜂たちは死んでいった。 ちょっと気の毒なぐらいバタバタと蜂が落ちた。 巣が殺虫剤でベタベタになるぐらいにかけてやったら、さすがに蜂たちも諦めたようで巣作りは中断された。 めでたしめでたし、である。 私はなにやらやり遂げたような気分になった。 もっともこの後、東海地方は連日大雨が降ったりして、物干しに母が上がる機会はそれほど多くなかったのだが。 <叔母のY子ちゃん> 私が実家に戻ったのは母の面倒を見るためである。 それは多分に自己満足のためであって、自分を満足させるためには他人の力を借りない方がイイ。 ここで私はY子ちゃんについて書かなければならない。 今まで「叔母」と表記してきたのは、全てY子ちゃんのことである。 のちに別の叔母であるM子ちゃんも出てくるから、やはり峻別しておかなければならないだろう。 母は6人兄弟の二女にあたり、Y子ちゃんはすぐ下の三女にあたる。 彼女は昨年から母を助けてくれていたようである。 私はそのことを母が入院するまで知らなかった。 彼女は極めて献身的で、母の世話ばかりか、父のシモの世話までしてくれる凄い人である。 母がY子ちゃんを奴隷のようにこき使って平然としているのに私は驚いていた。 更に驚くべき事に、母とY子ちゃんは昨年まで二十数年間ほとんどコンタクトがなかったという。 どうして今まで交流のなかった人間をあんなにこき使って平然としていられるのか、私には理解できなかった。 そこは余人には理解できぬ姉妹の絆があったのだろうか。 いや、私には単にY子ちゃんのパーソナリティに依存する問題のように思えた。 それはともかく、私が実家にいる間、私はY子ちゃんを母から遠ざけたかった。 私は母が起き上がっていられる最後の時を親子水入らずで暮らしたかったのである。 ところが、母は何かというとY子ちゃんを呼びたがる。 たかだか資源ゴミの搬出のためにY子ちゃんを呼ぼうとした。 いくら量が多いからって、私が50mほど先の回収所に10回ほど行けばいいだけの話なのに。 バスに乗ってやってくるY子ちゃんの労力を思えば、それぐらい何でもない。 しかし母は、何かと小言を言う私より、何でもいうことをきくY子ちゃんの方が楽なのである。 母はすぐに死ぬとは思っていないから、私の気持ちなど分からない。 Y子ちゃんはY子ちゃんで呼ばれれば喜んで来たい様子であった。 Y子ちゃんには母の余命は伝えていないから、彼女も私の気持ちなど知るよしもなかったろう。 携帯電話でこっそりY子ちゃんを呼びつけようとする母を見つけては、呼ばんでええ、と私は怒った。 さすがにY子ちゃんも来づらくなったようである。 のちに私はちょっと気まずい思いもした。 結局のところ、母の辛いときには面倒をみてもらって、美味しいところは私が頂く。 常に私はそういう態度であった。 <お盆> 私はお盆に特別な感慨はない。 そもそもご先祖様の霊が帰ってくるとか、そんな戯言に付き合うつもりはないのである。 もっとも世間の皆さんだって、別にご先祖様の霊が帰ってくることを信じているわけではないだろう。 今となっては、人が集まるための口実が必要だから、お盆というものがそれなりに尊重されているだけのことである。 私が記憶している限り、母はあまり実家へ帰らなかった。 特に母方の祖母が死んでからは全く行っていなかったのではないか。 ひとたび嫁に行ったからには嫁ぎ先が優先、という思いが強かったようである。 また親が死んでしまっては、行っても兄夫婦のやっかいになるだけで気が重かったのかもしれない。 ただし、今年はそういうわけにもいかなかった。 なにせ母にとって間違いなく最後のお盆である。 母の兄弟達も無理のない範囲で是非来てくれ、と言ってきている。 母は世話をしてくれていたY子ちゃん以外の兄弟には病状を隠していたが、さすがにこの時点ではバレていた。(ただし、死期が近いとまではわかっていなかったと思われる) 母の実家までは車で30分ほどの距離である。 もちろん行く以上は私が連れて行くより他になかった。 これがこの上なく気の重いことだったのである。 私は人間が嫌いなのである。 叔父や叔母に囲まれ、更に従兄弟、その嫁さんと子供達の中に入って何時間も耐えられるのか? 私には自信がなかった。 しかし、母が兄弟達と集う最後の機会になるだろうと思えば、連れて行かないわけにいかないじゃないか。 仕方ないので、「墓参りだけみんなと一緒に行って、『体の調子が悪いから』とでも言ってとっとと帰ろうぜ」と母に耳打ちしつつ、私は母の実家へと車を走らせた。 実家(といっても今は長男のRさんの家だが)に着いて早々、私は門柱に車をぶつけた。 門と行っても元々壊れていて、柱だけが曲がって立っている門だったので、知らんぷりしようかと思ったが、音でバレていた。 かなり気まずい状況であった。 もっともRさんは母の病状を大体察しているようで、そんな些末なことは気に掛けていなかったようだが。 この日は当然Y子ちゃんも来ていた。 電話口で私が「呼ばんでええ!」と言ったのが聞こえていたらしく、なにやらよそよそしげな感じで、私はますます帰りたくなったのである。 墓参りを叔父達と共に済ませた後、私は帰りたかったが、やはり帰るわけにはいかなかった。 来て早々帰るワケにも行かないのである。 一番下のM子ちゃん以外の5人が久々に集まったのだ。 話さなければならないことはたくさんあったのである。 一番上の叔母であるS子さんはちょっと心遣いの足りない人で、ずけずけと病状をきいてくる。 他の兄弟は遠慮して訊かなかったというのに。 しかし、母はなにやら嬉しそうに答えていた。 連れてきて良かったと思えた瞬間であった。 2時間ほどもその場にいただろうか。 日が暮れる少し前に私と母は退散した。 人間嫌いとは別に私は帰らなければならなかったのである。 私は夜運転したことがなかった。 しかも、ついさっき門柱にぶつけた前科持ちだ。 それは帰らなあぶなかろ、ということで気持ちよく?叔父達に見送られつつ母と共に帰った。 これがこの夏私がこなした一番の仕事だったかもしれない。 <日本の医療保険制度> 病院に入院すればお金がかかる。 手術すれば尚更かかる。 入院+胃の全摘手術+抗ガン剤治療ともなれば、その費用は月に百万を軽く超えてくるのである。 当然、それを支払わねばならない。 本人は入院しているから、手続きは兄がやった。 手続きをしてみて判ったことには、日本の医療保険制度は極めて優れていたという。 これは兄の談である。 私は自分で手続きをやってないから詳しいことはわからないが、月8万ちょいを支払い限度として、それ以上は後から返還されるんだそうだ。 もちろん保険がきく範囲だけだけど。(個室に入院したりすると、その分には適用されない) 母が年金でもらってる額より支払いの方がずっと少ないのである。 兄は、「こんなに素晴らしい医療保険制度があるなら、生命保険会社の個人医療保険とかには入らなくても問題ないじゃん。やめよう。」と言っていた。 こんなにも素晴らしい制度のある国に暮らしているのに、テレビなんかを観ていると、日本人は不安だのなんだのって文句ばっかり言ってるな。 将来のためにってお金を残しておく必要なんか無いんだ。 もっとも、こんな制度があったら、そりゃ国の財政も破綻するわい、と私は思ったけど。 この超過分の医療費が後から返還される制度は更によくできていて、入院する前から申請しておくと超過分が直接病院に払い込まれるため、一時的に現金を用意する必要すらなくなる。 そのためには市役所へいって認定証みたいなのを事前に発行してもらう必要があった。 兄から、母と一緒に市役所へ行って手続きしてくるように頼まれたので、私は行くつもりであった。 しかし、行く直前になって母が「ちょっと待って」というのである。 「もらいに行くってことは、また入院するって事? やめてよ、私そんなにすぐ病院もどらへんよ。」といって市役所へ行くのを渋った。 相変わらずわかっていないようであった。 「いやいや、あんたまたすぐ入院するから」と言うわけにもいかない。 結局、事前申請はお流れになった。 後に母が再入院して、一時的とはいえ多額の現金を必要とした兄は、「あの時もらっておいてくれれば楽だったのに・・・」と愚痴を言った。 母の資産は定期やら投資信託が多く、すぐに動かせるお金が潤沢にはなかったそうである。 あれはやむを得なかったんだよ・・・と私はいいわけをするより他になかった。 <あっという間の三週間> 介護休暇は三週間。 8月24日には帰らなければならない。 お盆が過ぎると、特に何をするというでもなく、あっという間に日々が過ぎていった。 多少イベントがないでもなかったが、それはまた後述する。 白血球の数が減少しているから、とお盆前に抗がん剤治療を一時中断していた母はかえって元気そうに見えた。 抗がん剤治療を休めばそれだけ死期は早くなるのだが、副作用で苦しまずに済むことをむしろ喜んでいたようである。 私は特別なことは起きないだろうと半ば安心して東京へ帰った。 ただし、これで終わりではない。 8/25-29の間、母の面倒はY子ちゃんに任せるが、私は8/30-9/7日まで再び帰ってくる予定だったのである。 今度は有休で。 全くもって理解のある職場であった。 やや気になったのは、私がいなくなったらY子ちゃんを呼び寄せようと、母はかなり早い段階から用意していたことである。 どうも口うるさい私より、従順なY子ちゃんの方が居心地が良いらしい。 兄のもとにも戻りたくなかったようだ。 本来ならば兄の家に行ってもらって、兄にも母と暮らす幸せを感じさせてあげたかったのだが。 全く困った母であった。 8月30日に実家へ戻ってきた私は、またそれまでと同じように母と暮らした。 <飛騨路で> 母が退院したら、北海道にでも旅行に連れて行こう。 そう兄と私は話していた。 しかし、これは結局実現できなかった。 母にその気がなかったのである。 兄などは5月のうちからパンフレットを集めたりしていた。 こっちは余命を知っているから、何かしてやりたい。 しかし、母は体が辛いから全く行く気がないのである。 あんまり強く勧めると、「何でこんなに体がきついのに、旅行なんか行かなあかんの?私はそんなに早く死ぬんか?」と聞き返されるので、無理に連れて行くことは出来なかったのである。 「長く生きられると思うな」と私は繰り返し言ったけど、具体的に半年後生存率が50%とまでは伝えていなかった。 我々は長距離の旅行は諦めた。 その代わり日帰りの、それも半日で帰ってこれる程度の、謂わばドライブというべき少旅行に行くことにした。 私は旅行という行為に全く関心がなかったので、プラニングしたのは兄である。 車で1時間か2時間でいけるところ、ということで、下呂温泉やら郡上八幡にも行った。 ただし、私がここまでそれについて何も書かなかったのは、これといって特別な感想もなかったからである。 私は旅行が楽しいという感覚があんまりよく分からない。 しかし、9月6日に飛騨高山へ向かったときは素晴らしい経験をした。 高山自体はどうって事ない。 ただ古ぼけた町並みが残っているだけである。 観光するといっても、歩いて10分ほどで見終わってしまうお土産物通りがあるに過ぎないじゃないか。 なぜあれを観光するのか、私には全くもって理解できないのだが、それは私が特殊な人間だからであって、飛騨高山が特別悪いと言いたいわけでもない。 私が素晴らしい経験をしたのは、行き帰りの車中でのことであった。 我々は母の生涯について話した。 やがては死ぬであろう母を出来るだけ知っておきたかったのである。 ここで少しだけ母の生まれについて書いておく。 母は比較的有力な農家に生まれた。 しかし、理由は忘れてしまったが、大きな借財を抱えてしまったらしく、母が子供の頃には大層貧乏したそうである。 のちの姿からは想像も出来ないが、中学生ぐらいまではガリガリだったそうだ。 早逝した兄弟を入れると、9人のちょうど真ん中に生まれて、非常に我慢を強いられた子供だったらしい。 とにかく何かを買ってもらうということがなかったようだ。 一番下のM子叔母さんなんかとは、幼少時代の経験が違う。 それでも地元の短期大学を卒業させてもらえたのだから、まあ、不幸な生い立ちとまでは言えないかもしれない。 卒業後病院に栄養士として勤めた母は24歳まで独身であった。 当時24歳で独身というのはかなり行き遅れ感があったそうで、「ご近所に体裁が悪いから頼むではよ結婚してちょ」、と母の母のA子ちゃんに急かされたらしい。 我々はこの祖母をA子ちゃんと呼んでいる。 「一回結婚して、駄目なら戻ってきてもイイから。お姉ちゃんと一緒にアパートに住めばいい。」とまでA子ちゃんにいわれたそうである。 母の姉に当たるS子叔母さんもまた30過ぎて未婚であった。 出戻ってきたら、持ちアパートの一室を貸してあげる、というこれは具体的提案なのである。 やむなく母は見合い結婚をした。 それが我が父である。 おかげで私たちが生まれた。 ここからが私たちが飛騨路で知る母の歴史である。 昔はヤケに家格に五月蠅かった。 父の家は父、つまり私の祖父が早くに死んでしまったため、貧しかった。 ただし、家格は高かったそうで、変なプライドを持っていたようだ。(家格が何で決まるのか判らないのだが) 父方の祖母T子ばあちゃんは、嫁さんには高価な嫁入り道具を持ってきて欲しかったのだが、貧しい母の家にはそれが用意できなかった。 そのことで、ずいぶんT子ばあちゃんには苛められたようである。 A子ちゃんはその点について見て見ぬ振りをしていたそうだ。 ない袖は振れない。 母がどれほど訴えても、何も持ってきてくれなかったようである。 そういったこともあって母はA子ちゃんが嫌いであった。 しかし、ふつう実家としてやらなければならない事もある。 孫が生まれたら、ランドセルは母方が、勉強机は父方が買ってあげるんだそうだ。 私は知らなかったが、これは今現在でも行われている習慣らしい。 さすがに母もこれは買ってくれると思ったようだ。 ところが、A子ちゃんは頑として買ってくれなかった。 兄が小学校に入学する直前になってもなかなか買うそぶりを見せないのである。 どうも安くなるのを待っていたらしい。 入学式が近づけば近づくほど安くなるのである。 普通は年が明けたら買ってあげるものなんだそうだが、なかなか買ってくれないので、T子ばあちゃんも心配し始めた。 母への風当たりは強くなる一方である。 母は辛い。 母は勤めていたからお金は持っていた。 だから、A子ちゃんにお金を持っていって、「そっちから贈ったことにして」と頼んだのである。 するとA子ちゃんは怒った。 「この子は親に金持ってきてランドセル買わせるイヤらしい子や!」と。 母はこの件に入って泣き始めた。 「この子はイヤらしい子やって言うんやよぅ。」と言って、母は繰り返し車の中で泣いた。 大泣きした。 私は大笑いした。 こんな母を見たことがない。 いい話を聞いたし、いい姿を見ることが出来た。 旅行とはこんなに良いものかと私ははじめて思った。 人間が集まって移動しなければならないからこそ、こんな話も聞けるのである。 私は旅行をセッティングしてくれた兄に心から感謝した。 ちなみにこのランドセルの件は、母の父が何とか上手く収めてくれたそうである。 はじめからそうしろよ、と思うのだが、昔のことだから事の機微はよく分からない。 <夏休みの終わり> 特に何をするというでもなく日々は流れていき、私が帰る9月7日が来てしまった。 あっという間だったな。 事実上の夏休みが終わってしまったのである。 次回私が実家に戻ってくるのは9月20日になるだろう。 私がいなくなった後、母をどうするか? やはり心配なので、兄の家に行って欲しかった。 しかし、母は頑として実家に残るという。 Y子ちゃんやM子ちゃんに来て貰うから大丈夫だ、例え一人だとしても、今までだってそうしてきたんだから心配は要らない、と母は主張した。 相変わらず自分の死期に気付いていないようであった。 更には「もう70年近く生きてきたから、このまま死んでもイイ。ここにおらせて。」というので、説得のしようもなかった。 やむを得ない。 体の調子が悪くなったら、ためらわず病院へ行くように念を押して、私は東京へも戻った。 この時点ではまだしばらく保つだろうと思ったのである。 お腹が痛いとは言っていたが、それは前からだったので、どの程度悪化しているのか想像できなかった。 しかし、実は私は見ていたのである。 便器の底にうっすらと赤いものが漂っているのを。 おそらく血便が出ていたのではないか。 腹膜に拡がった癌細胞は母の小腸や大腸を蝕んでいたのだろう。 それはわかりきったことである。 だから、私はそのことについて母に何もきかなかった。 本人が隠しているなら、知らない振りをしようと心に決めた。 後はどこまで保つかというだけである。 母が少しでも長く実家にいられることを祈るばかりであった。 「あんた、一ヶ月も一緒に暮らしてくれて、それで十分や」という母の言葉に私はそれなりの満足感を抱いていた。 仮に後十年生きていてくれたとしても、脳卒中なんかで逝かれていたら、私は何もしてやれなかったろう。 むしろ癌になったおかげで一ヶ月母の面倒を見ることが出来た。 天佑に感謝すべきである。 そんなことさえ私は考えていた。 <終わりの始まり> 穏やかな日々は続かなかった。 9月10日。 私が帰って3日後のことである。 お腹の痛みが増してきて、どうにも我慢できなくなった母は病院へ行った。 早速CTを取ることになったようである。 この日母は私に電話をかけてきたが、電話口ではさほど心配してなさそうな印象であった。 担当医が飄々としているので、大事ないと思ったらしい。 それがあのやる気の感じられない担当医の良いところでもあった。 しかし、9月15日になってこちらから電話したときは、かなり落ち込んでいた。 お腹が痛くて仕方ないらしい。 やっぱり駄目かも、と弱気になっていた。 9月19日になって医師の診断がおりた。 腹水が溜まっているらしい。 がん性腹水だろうと思われるが、この期に及んでいちいち細胞の検査とかはしないようだ。 患者の体に負担が掛かるだけだから。 お腹に溜まった水は栄養分なので、抜くとどんどん体が弱っていくそうである。 だから抜くわけにはいかない。 八方ふさがりである。 もっとも、医師は母に栄養状態が悪いとお腹に腹水が溜まることがある、と説明したそうである。 この時点でもまだ余命は伏せられていた。 私はいよいよ来るべき時が来た事を感じながら、9月20日になって帰省した。 <音をたてる家> 2週間ぶりに帰ってくると、少し家は荒れていた。 おかしいなと思って母にきくと、Y子ちゃんがもう10日も来ていないという。 彼女にだって家庭があるから、そういうこともあるだろう。 しかし、叔母が来ていると聞いていたのだが・・・と思ってよくよく聞くと、来ていたのはY子ちゃんではなく、下の叔母のM子ちゃんだった。 奴隷のように働くY子ちゃんと違って、M子ちゃんは働かない。 彼女自身乳ガンの摘出手術を受けたことがあって、あまり丈夫な方ではないのである。 しかも、M子ちゃんは泊まっていってはくれない。 当たり前である。 彼女には彼女の家がある。 泊まっていってくれるY子ちゃんが献身的過ぎるだけであった。 従ってこの10日間、母は一人で夜を過ごしていたのである。 私は知らなかった。 随分心細い思いをしたことだろう。 この滞在中、母は何かの拍子に、「この家、夜なんやら音がするやろ?なんやおそがいで。」と漏らした。 「おそがい」は「恐ろしい」という意味の方言である。 我が家は古いからなのか、立て付けが悪いからなのか、何もないのに突然どこかが「ギィ」とか「ガタッ」とか音を立てる。 これはずいぶん前からそうだった。 さらに私は思い出す。 母は私に宛てたメールの中で、惚けてしまった父について「家で息をしとってくれるだけでいいと思ってます。」と書いていたことを。 この家に一人でいるのは心細かっただろうな。 無理にでも兄貴の家に連れて行けば良かった、と後悔した。 しかしながら、やはり私は3日後には帰らなければならない。 容態が悪化しているからなのか、抗ガン剤の副作用のせいなのか、母はしかめっ面をして寝ていることが多くなっているというのに。 幸いにして、この後はY子ちゃんが来てくれるという話である。 それに甘えて私は実家を離れた。 すぐに帰ってくる羽目になるのだが・・・。 <再入院> 私が東京に戻って3日後のことである。 9月26日なって、母は自分で車を運転して病院へ行き、その場で入院を決めてしまった。 よほどお腹が痛かったらしい。 担当医がいつでも自分の判断で入院していいよ、というので、即入院を選んだようだ。 入院の準備はY子ちゃんがやってくれた。 私は翌27日にまた帰省した。 元々太っていることもあって、見た目はそれほど重病患者には見えないのだが、容態は日々悪化しているようである。 腹水を抜かずに済むように利尿剤を飲んでいるという話だった。 尿で水分を出した方が体にいいんだそうだ。 医師に面談した兄によると、もはや治療のステージではなく、痛みを緩和するステージに入ったという話であった。 もうここから良くなることはない。 退院できる見込みはなかった。 私は兄と、体力のあるうちに出来るだけ実家へ外泊できるようにしてやろう、と申し合わせた。 そのためには母に自分の状態を理解させなければならない。 一時帰宅するなら、早い段階でやるしかないだろう。 そのためには母に焦ってもらわなければならないのだ。 兄は今までよりもやや具体的に余命を伝えた。 さすがに母も観念したように、このときは思えた。 私は後を兄に託して翌28日には東京へ戻った。 <再び溢れる涙> この頃、私はあることに気づいた。 私はまた頻繁に涙を流すようになっていたのである。 母が癌であることが判ってから一時的に回復するまでの間、私はやりきれなかった。 あまりにも可哀想すぎる。 祖母が死んでやっと介護から解放されたと思ったら、父がおかしくなった。 ずっと介護ばっかりだ。 さんざん人の面倒を見て、自分は人生を楽しむ暇もなく死なねばならないなんておかしい。 この世には神も仏もない。 いたらこんな酷い仕打ちをするはずがないじゃないか。 そう思うと、止めどもなく涙が溢れてくるのだった。 しかし、母が一時的に回復すると私は泣かなくなった。 母の死が現実のものと感じられなかったからだろう、おそらく。 ところが今また母の死は現実となって私に迫ってきている。 実家へ帰って、オーブンを見てはホッケを焼いている母を思い出して泣き、洗濯物を見ては洗濯物を折りたたんで叩いてから干すことを教えてくれた母を思い出して泣いた。 涙は私に事態が切迫していることを教えていた。 <最後の外泊> 時間が経てば経つほど母が外出するのは難しくなるだろう。 とにかく出来るだけ早く母を一回家に連れて帰りたかった。 当の本人は家では処置してもらえないからと、不安で仕方ないようだったが、何とか説得して一日だけ外泊することにした。 私もそれに合わせて帰省した。 10月4日のことである。 実家へたどり着くと、既に母は戻ってきていた。 もうかつての元気はない。 来るべき死に備えて家の片付けをしなければ、と言っていたが、それを実行に移す体力はなかった。 「半端な人生やった・・・」とつぶやいてばかりだった記憶しかない。 夜は居酒屋へ食事に行った。 というのも、居酒屋にはホッケがあるからである。 この日は多少なりともホッケを食べていたので、私はまだまだ大丈夫かな、と思っていた。 この日は兄も一緒に実家に泊まった。 これが最後かもしれないと思っていたからである。 とりあえず寝るまでは今までとさほど変わりはなかった。 しかし、朝方になってお腹が痛み始め、やはり病院に戻ると言い出した。 自宅では痛み止めも処方してもらえないとあって、心配で仕方ないようだ。 夕方帰る予定だったが、予定を早めてお昼には病院に戻った。 この日が母が実家に泊まった最後の日となった。 ついでにホッケを食べたのも最後となったのである。 <死は聖人をつくる> 最後の帰宅以降、母はまるで聖人のようであった。 どういうワケか、ヤケに反省ばかりしていたのである。 「自分の人生は半端やった。 仕事も半端やった。 子育ても半端やった。 お父さんの面倒見るのも半端になった。」 と言い出したかと思うと、「自分は傲慢だった」、といってまた反省していた。 「癌になるはずがないと思って、病院に行かなかったのも傲慢だったし、人様への態度も私は傲慢やった、あらゆる人に対して傲慢やった・・・」と目を閉じて、ため息ばかりついていた。 どうも死を目の前にすると、人間は反省せざるを得ないようである。 しかし、私はどうにも違和感を感じていた。 こんなのはおっかさんじゃない、と思っていたのである。 私の母は、人を妬み、嫉み、そしてもっと幸せになりたいと願う人だったはずである。 こんないい人ぶった母は好きじゃない。 しかし、聖人のような母を見せつけられたのはホンのわずかの期間に過ぎなかった。 このあと、母はまるで別人のようになったのである。 <モルヒネ> 10月18日に私は帰省した。 母はお腹の痛みと吐き気に苦しんでおり、この何日か前から痛み止めの座薬を夜寝る前に入れて貰っていた。 もうこの期に及んでは、私にやってあげられることはない。 お見舞いに行ってもただ横にいてあげるだけである。 母は苦しみに耐えて、ずっと目を閉じている。 ほとんど目を開けている姿を見せることはなくなっていた。 19日東京へ戻る前に病室へ行くと、なにやらちょっと様子がおかしかった。 17日から病院の食事も止めてしまったはずなのに、パンを買ってきてくれ、といいだした。 病院の一階に売店があり、そこでパンを焼いているのだ。 お昼ぐらいになるといい臭いが立ち上ってくる。 それを嗅いだら食べたくて仕方がなくなったようである。 私が菓子パンを二つほど買ってくると、母は信じられないほどのスピードでモシャモシャとパンを喰らった。 そして飲み込まずに吐いた。 それを繰り返して、「あんたは見とって気持ち悪かもしれんが、私はどうって事ない」と嘯いた。 なんかおかしいな、と思ったのだが、まあ、そういう日もあるかな、と思って私は東京へ帰ることにした。 母に別れを告げると、「どうせ座っとるだけやろ、フフフン」と言い出してビックリ。 新幹線に乗るといっても座ってるだけだから、別にえらくもなんともないだろ、というのである。 いつもは「遠くから来てもらって悪かったねぇ」とか言うのだが。 何かおかしいとは思いつつ、帰らないわけにも行かない。 私は東京へ戻った。 帰ってから兄に聞かされたのだが、18日夜の座薬にはモルヒネが混ぜてあったそうだ。 要するに母はモルヒネでラリっていたのである。 やっぱり聖人みたいな母は嘘んこで、モルヒネを打たれた母の方が本物だと分かり、私はやや安心した。 つまり母は私が帰ってきても、「どうせ座ってただけやろ」と思っていたのだ。 それでこそ我が母。 私はそういう母が好きなのである。 この日以降、ずっとモルヒネは投与された。 どうもモルヒネをはじめて打たれた人というのは耐性がないらしく、幻覚や妄想が強く現れることがあるそうだ。 2週間もすると症状はやや落ち着いたが、落ち着いたんだか、単に体が弱って反応が鈍くなったのかよく分からないところもあった。 兄のメールはこれ以降ラリった母の報告ばかりになる。 これが私の悩みの種であった。 <すれ違い> 母にモルヒネが投与されるようになって、兄は毎日長文のメールを送ってくるようになった。 今日はこんな幻覚を見たとか、こんな妄想をしていた、と事細かに書いて送ってくるのである。 兄はまともな事を話せない母にショックを受けていたらしく、書かずにはいられなかったようだ。 しかし、モルヒネでラリってるのはわかってるんだから、そんなもん書いて送ってこられても困ってしまう。 他人の夢の内容にコメントしろと言われて困るのと同じである。 私は返事を書くのに難渋した。 毎日同じような内容で、且つ最後に悲観的なコメントが添えられたメールが届く度に、相変わらず兄貴は腹が据わってねぇなーと思ったものである。 だんだんイヤになってきて、メールをあまり真剣に読まなくなった。 返事もいい加減になっていき、時には返事を書かないこともあった。 電話が掛かってきても、適当にあしらうこともあったな、そういえば。 11月に入ると、母の病状はいよいよ悪くなった。 もう起きがあることすら出来なかったのである。 兄からのメールはモルヒネでラリっているときよりもなお一層深刻な内容になっていた。 にもかかわらず、私は事態をあまり深刻に捉えていなかった。 そんなこと言って、結局おっかさんはまだまだ生きてるんでしょ?と思っていたのである。 あまりにも毎日悲観的なメールを送ってくるので、私には兄が狼少年のように感じられていた。 兄が看護婦に、「いよいよ危ないから、誰か泊まってもらった方が良い」と言われた、という話を聞かされても、私はあまり深刻に考えなかったのである。 私は母が亡くなる二日前の金曜日も、いつものように夜更かしをして、翌日11月22日14時過ぎに母の元を訪れた。 このとき、もう既に母は話すことが出来なくなっており、私が母と話す最後の機会は失われてしまった。 この日の午前中までは、怪しげながらも返事をすることが出来たそうなのだが。 <親としての最後の仕事> 少し話は前後する。 モルヒネを投与され始めてからワケの分からない事を言い始めた母であったが、常に変なことばっかり口走っていたわけではない。 比較的まともな事もあった。 特に医師が来ると、母は妙にシャキッとした。 こっちは母のおかしなところをみてもらって、先生に何か手を打ってもらいたいのだが、医者の前ではシャキッとするから、なかなか伝わらない。 困った母であった。 そんな母も、11月に入ってからは担当医師に、「早いとこ、逝かせてもらえんかね」と言っていたようである。 モルヒネを打っていても、やはり腹部の痛みと吐き気は完全に収まるわけではない。 相当苦しかったようである。 私はその話を兄から聞いて、もし「殺してくれ」と言われたらどうしよう?と思った。 これはシミュレーションしておかないと、いざという時に困るかもしれない。 もちろん、如何に母が苦しいとはいえ、殺すわけにはいかないから説得する必要がある。 どうやって説得するかを私は考えなければならなかった。 しかし、私はあくまで自己中心論者である。 母のために、というロジックは組み立てられない。 そこで、 「俺が親の面倒はみきったと満足するまで生きていることが、あんたの、親としての最後の仕事や。俺が満足するまで死んだらいかん。」 と、言うことに決めた。 これなら、自分の信念にも合致して嘘がない。 いいじゃないか。 結局、これを言う機会はなかったのだが。 さすがに母は殺してくれとは一度も言わなかったな。 少なくとも私のみている前では。 「早いとこ逝かせてもらいたいわ」と言ったことはあったけど。 私のにらんだとおり、母は強い人だった。 <最後の時> 11月22日に帰省した私は母の病室に泊まった。 当初は前日泊まり込んだ兄と入れ替わりで、という話だったのだが、事態が切迫してきたため、兄と二人で泊まり込むことになった。 兄は連泊である。 数日前から尿が黒ずんできており、それは最後の時が近づいてきている兆候らしかった。 体温は40度に達しており、呼吸は浅く、息を吐く度にに「はっ」と声を上げ続けている。 どうも横隔膜が下がらなくて、息を吐くときに、基準位置より上に押し上げているような印象があった。 私は兄に、腹水を抜いて腹圧を下げてはどうか、とか、解熱剤を投与してはどうか、とか、思いつく限りの提案をしたが、全て却下された。 もはや一つ一つの症状に対処していく状況ではないというのである。 医師が言うには、心臓が弱ってきているそうだ。 母は延命処置を拒否していたので、ただ見守るしかなかった。 私が来た時点で、母は背中の左側にクッションを入れて右に向かされた状態であった。 常に消化液をはき出しており、それが気管が詰まらないように横を向かされていたのである。 どうも腸のどこかが癒着しているようで、分泌される消化液が下へおりていかず、口へ戻ってきてしまうのだ。 母の口には常に茶色い液体が溜まっていた。 大量に溜まったときは看護婦を呼んで吸引してもらうのだが、あまり頻繁に呼ぶのも気が引ける。 私と兄は茶色い液体を綿棒で掻き出しつつ、母を見守った。 医師から会わせたい人には連絡を入れた方がいい、と言われていたこともあって、この日から翌日に掛けて親戚一同が入れ替わり立ち替わりお見舞いにやってきた。 ただし、もう母に意識はない。 何を語りかけても答えられないのだが、呼びかける方は呼びかけずにはいられないようだ。 皆めいめいに母になにかしら喋りかけていった。 中でも凄かったのはM子ちゃんで、彼女は部屋に入ってくるなり大声で「ごめんよぅ」と叫びつつ母の手に飛びついて泣いた。 凄い泣き方だった。 人間なかなかあそこまでは泣けない。 役者にでもなればいいのに・・・、とか余計なことを私は考えていた。 M子ちゃんには負い目があったのである。 昨年の夏、私は知らなかったのだが、母は胃の不調を訴えていたらしい。 それで胃の検診を受けようとしたときにM子ちゃんが、「今の時期はヘタクソのインターンにやられるから、ちょっと待った方がいいよ」と言ってしまったそうだ。 おそらく母は良い言い訳を見つけたと思ったのだろう。 それで検診を受けるのをやめてしまったようである。 スキルス胃癌の進行の速さを考えると、夏の時点ではまだ癌ではなかったかもしれないが、そのことをM子ちゃんは酷く気に病んでいた。 この2週間前に私は偶然病院でM子ちゃんに会って、その話を聞かされた。 M子ちゃんは凄い勢いで泣き始めて、私も泣かざるを得なくなった。 あれだけ泣かれたら、こっちも泣くしかない。 いい歳こいた大人が二人でわんわん泣くハメになったのである。 それも他の患者さんもやってくる休憩所で。 この叔母さんはかなわない人だった。 一通り面会も終わると、いよいよ私と兄二人で夜を明かすことになった。 今まで面倒を見てくれていたY子ちゃんは遠慮して帰ってくれたようである。 私と兄は1時間交替で休みながら夜を明かした。 母は息を吐く度に呻き声を上げ続けていた。 声を出さないと呼吸できないかのようでもあった。 時折、体温と血中の酸素濃度を測るために看護婦がやってくる。 体温は依然として40度を超えていた。 体温さえ下がればまた持ち直すのではないか、と私は淡い期待を抱いていたが、結局体温は高いままであった。 この時点では酸素濃度は足りているとのことで、酸素マスクはしていなかった。 少しずつうめき声が小さくなっていることを覗けば、あまり変わりなく夜は明けていった。 翌朝、医師の回診がある。 ぞろぞろと部下を連れた外科部長(担当医)は部屋に入ってくると、聴診器を当てすらせず、兄の方を向いた。 そして、「これはもう今日明日です」と断言した。 呼吸の状態だけで判るようだ。 いよいよとなって、お昼頃からまた親戚一同が顔を出した。 母の兄弟達は皆近くに住んでいるので、何度でもやってくる。 唯一名古屋に住んでいて、あまり顔を出さない一番上のS子叔母さんがお昼過ぎにやってきて、しばらく居座った。 さんざん苦労しながら一番美味しいところは我々に譲ってくれるY子ちゃんとはえらい違いであった。 母の呼吸は確実に小さくなっていく。 私と兄は出来れば二人で最期を看取ってやりたかったので、はよ帰れや、と念じていた。 午後1時頃になって、酸素マスクをつけられた。 血中酸素濃度が落ちてきたようだ。 ついでに看護婦が母の体の向きを右から左に変えていった。 同じ方向ばっかり向いていると、床ずれを起こすからだろう。 しかし、慣れた向きと逆に向かされて母はやや苦しそうに見えた。 S子叔母さんが帰ってくれたのは午後2時を過ぎた頃である。 正直言って、まさかあんなに早くそのときが訪れるとは思っていなかった。 私と兄は、きっともう少し後になるだろうから、今のうちに交代で休んでおこうと申し合わせたところだったのである。 私は30分ほど寝ていて、あまりにも静かなことに逆に驚いて起きた。 母の呼吸は酷く静かになっており、もう呻き後は出していなかった。 ただし、息はしていた。 息を吐き出す度に、透明な酸素マスクに白く結露するのである。 この時点ではまだ心電図は運び込まれていない。 こんな状態なのに、心電図つけんでいいんかいな、と思ったが、そこはそれナースステーションで母の状態は把握できるようになっており、やばくなったら運び込む手はずになっている、と兄に教えられた。 そんな話をしているとき、ふと母に目をやって私は違和感を覚えた。 酸素マスクが透明なまま変わらない。 よく見ると、かすかに口元が動いているだけの、謂わば虫の息というべき状態であった。 これはマズイっと思った矢先、看護婦が心電図をごろごろ転がして病室に入ってきた。 3人の看護婦がいそいそと母の胸をはだけさせ、電極を胸に貼り付ける。 しかし、心電図にはノイズだかなんだか分からない信号が出ているだけだった。 看護婦達は慌てて医師を呼んだ。 私と兄は母を見つめてただ待った。 私にはこの時間が極めて長く感じられたのだが、兄によると看護婦が呼んでからすぐに医師が来たそうである。 担当医ではない、見たことのない若い医者だった。 医師は呼吸の停止、心臓の停止、瞳孔の拡大を確認し、「15時6分、ご臨終です」と我々に告げた。 手術から7ヶ月。 ついに母の闘病生活は終わった。 これでやっと母も苦しみから解放された、と思うことにした。 おっかさんよかったな、解放されて、と話しかけようかと思ったが、そこまでは割り切れない自分もいた。 <お通夜前> 医師に母の死を告げられてから、兄は一度は解散した親戚一同にまた再び連絡を回しはじめた。 長男はただ悲しんでばかりもいられない。 大変気の毒なことであった。 ものの30分もしないうちに親戚達が集まってくる。 みな覚悟していたからだろうか、それほど落胆した様子は見られなかった。 こういうときに必ずきかれるのが、「息を引き取る瞬間に立ち会えたか」とか「息を引き取る瞬間はどうだったか?」という質問である。 「最後の瞬間には立ち会えました」と答えると、「それは良かったねえ。おかあさんも喜んどんさるよ」と皆口々に私に語りかけた。 また、「最後の最後は静かに逝きました」と答えると、皆一様に「それは良かった。最後だけでも穏やかで良かった。」と口々に感想を漏らした。 しかし、考えれば当たり前のことで、力尽きてもはや静かに呼吸せざるを得なかっただけのことなのである。 静かに逝って良かった、なんてのは気休めに過ぎない。 それでも、気休めは気休めにはなる。 親戚の皆さんの言葉を私は有り難く頂いた。 ほどほどに対面を済ませると、看護婦達が母を着替えさせて、死に化粧を施してくれた。 母が病院から運び出されるのはもうすぐのことなのである。 いったん安置所に移されて、そこから手配しておいた車で母を実家へ運ばなければならない。 気の毒なことに、兄はこの段取りを前日から進めていた。 死ぬ前から死んだときの準備をしておかなければならないのである。 長男でなくて本当に良かった。 私の神経ではおそらく耐えられなかっただろう。 母が病室から運び出されると、親戚一同が驚くほどのスピードで病室を片付けた。 ものの5分である。 母が生活していた部屋は瞬く間に空になった。 みんな凄い割り切りだな、と私は妙に感心してしまった。 15時6分に母の死が告げられて、16時40分には病院を出発し、17時には家に着いていた。 もの凄い早さで死後処理が進められていく。 母の死を実感する間もない。 家に着くと、実家は綺麗になっていた。 Y子ちゃんが前もって掃除しておいてくれたのである。 なんという強い人なのか。 我々はY子ちゃんに感謝した。 母は我が家で神様の部屋の呼ばれている、普通の家なら仏間というべき部屋に北枕で寝かされた。 布団もY子ちゃんが用意しておいてくれたようである。 改めて母の顔を覗くとやはり死んでいるようには見えなかった。 その後、親戚一同がだべっている脇で、葬式業者と兄が打ち合わせをした。 私も同席し、出来るだけ簡素にやろうと申し合わせる。 業者はさすがに慣れたもので、テキパキと事務処理を済ませていった。 納棺を明日9時から、出棺を15時から、通夜は18時からに決まった。 一通り必要な事務処理を終え、スケジュールを伝達すると、21時頃には親戚一同は帰っていった。 私と兄だけが実家に残った。 我々は朝まで母を見守らねばならない。 なんでもロウソクの火を絶やさないように番をするものなんだそうである。 交代で寝ても良かったのだが、寝る気にもならない。 私は朝まで起きているつもりであった。 母の横で兄と二人寝転んでいるときに、不意に兄は「これからどうやって生きていったらいいんや」とつぶやいた。 何という偶然だろう。 私も同じことを考えていた。 私は祖母が亡くなったときの父の話を思い出していたのである。 祖母が亡くなったとき、父はやはり「これからどうやって生きていけばいいんや」と言ったと、Y子ちゃんや母から私は聞かされていたのである。 70近い男が90の母親が死んで言うセリフかと、Y子ちゃんや母は訝しんでいた。 しかし、実際に自分がその立場になってみれば、これは分かるな。 父は私や兄からバカにされていた。 母からも尊敬は受けていなかった。 父は祖母の面倒を全く見なかったし、寝たきりになった祖母に優しい言葉の一つも掛けてやりはしなかったが、それでも祖母が心の支えだったはずである。 だって、自分のことを心配してくれるのは、この地上にはもはや自分の母しかいなかったのだから。 「これからどうやって生きていったらいいんや」という言葉ほど、この時の私の心境を表したものもなかった。 私は兄に「この世に自分のことを心配してくれる人は、もういないんだからな」と同意を示した。 兄はうなずいて、「しかも、母の愛は無償だった」とつぶやいた。 まさしくその通りである。 母の愛は無償だった。 兄と私は母の看護についてすれ違いが多いように感じていたが、この時ほどピタリと思いが重なったことはなかったな。 母を失って、兄を得た思いであった。 <後悔> 夜中の2時を過ぎるといつしか兄の声が聞こえなくなった。 寝てしまったのか。 ひとりになると、またこの家の軋む音が身に染みる。 おっかさん寂しかったろうな、と思い、後悔が首をもたげてきた。 いざ死なれてみると、何にもしてやれなかったという思いに苛まれる。 夏に一ヶ月一緒に暮らして、自分にやれることはやったような気になっていたが、あの程度でやったなんて言えるはずもないじゃないか。 もっと何かしてやれたんじゃないかと思うと、いてもたってもいられなくなり、泣き叫びたくなった。 しかし、兄が横で寝ているから声を出すわけにも行かず、我慢した。 我慢すると、体が震える。 私は体を震わせながら泣いた。 泣き続けた。 どれほどの時間泣いていたのか分からないが、私はいつしか寝てしまっていた。 目覚めると、もう朝である。 ホントは寝ていけなかったのに、二人とも寝てしまったようだ。 ロウソクは消えていない。 元々消えないように出来ているのだ。 納棺の時間が近づいていた。 <納棺からお通夜へ> 9時に納棺ときいていたが、納棺する前に前処理をするようである。 男女3名のスタッフがやってきて、カーテンを閉めて30分ほど作業をしていた。 おそらく穴に栓をしたり、硬直する前に体勢を整えたりしていたのだろう。 このとき母は浴衣を着せられ、本格的な死に化粧も施された。 納棺してしまうと、お葬式まで棺桶を開ける機会はない。 顔の部分に作られた小窓から覗くのみである。 親族の男性一同で母を下にひいたシートごと持ち上げて棺桶に入れる。 我々がやる作業はそれだけであった。 出棺は15時なので、それまでまた親戚一同は解散した。 しばらくまた私と兄で母と共にいることが出来た。 時折、小窓を開けては母の顔を見る。 顔を見るとまた悲しくなり小窓を閉めて、また見たくなって小窓を開けて、を何度も繰り返した。 15時になるといよいよ出棺である。 母がこの家に戻ることはもうない。 そう思うと格別な感慨があった。 親戚一同で棺桶を家から運び出すと、外には意外なほどたくさん近所の住人が立ち並んでいた。 母は心根は卑しい人だったが、世間体には五月蠅い人だった。 きっとご近所には悪く思われていなかったのだろう。 近所の皆さんに見送られつつ、母は葬儀場へと出発した。 集まってくれた近所の皆さんに頭を下げつつ、我々もこの後葬儀場へ向かった。 葬儀場はこぢんまりとした綺麗な建物であった。 近親者のみしか参加しないという想定で、一番小さな斎場を手配してもらったのだが、この建物だけ最近建てたのだそうだ。 出棺からお通夜までの間、兄は業者といろいろ打ち合わせていたが、私は何もすることがない。 受付は叔父達が引き受けてくれていた。 私は母が運び込まれた会場で、また母の顔を眺めていただけである。 ただ一つ変化があったことには、祭壇に遺影が飾られていた。 これは素晴らしい写真だったな。 ほんの2年前とは思えないほど福々しい写真であった。 兄が言うには、たまたま父の写真を撮ったときに一緒に写っていたものを使ったそうである。 母の写真はどれも目が閉じているものばかりで、他になかったとか。 私は写真を激烈に褒めて兄を泣かした。 18時になるとお通夜が始まる。 我が家は神道だから正式には通夜祭というそうだが、神式はなんだかつまらない。 詔の読みあげてもあまり有難味がないな。 どうせならお経でも上げてくれた方が良いのに、と思いつつ私は時が過ぎるのを待った。 式はものの1時間で終わる。 ちなみに神主二人をお通夜、葬儀、十日祭(仏式でいうところの初七日みたいなもの)と二日間拘束して、謝礼は30万円+お車代。 これを高いと思うか、安いと思うか。 私は凄く高いと思った。 坊主丸儲けならぬ、神主丸儲けである。 親族達が帰ると、親族控え室でまた兄と二人になる。 親族控え室は宿泊も出来るようになっており、ここに棺桶も運び込まれた。 またしても朝までロウソクの火が消えないように番をするのである。 <魂の宿る場所> お通夜の会場は遅れて来る人のために開けてあるが、誰も来なかった。 当たり前である。 ごく近しい人以外には連絡してないし、近所の皆さんにはお断りを入れてあった。 21時を過ぎる頃には、葬儀場の職員はおろか警備員すらいなくなって、我々だけになる。 誰もいない葬儀場の控え室で、我々は母の棺桶の前で酒を飲んだ。 時折棺桶の小窓を開けて、顔を眺めては涙した。 棺桶の頭側にテーブルが置かれている。 このテーブルの上にロウソクが置かれており、この火を守るのが我々の仕事であった。 もっとも寝てしまってもいいように、予備のロウソクも点けておいたから、どうでもイイといえばどうでもイイ仕事である。 ただ、一つ気になったことには、テーブルの上に霊璽(れいじ)がなかった。 神式では死者の魂を霊璽と呼ばれる白木の小箱に移し納める。 通夜祭の中で入れるような仕草を神主がしていたから、形式上は霊爾に魂が入っているはずであった。 棺桶持ってきた割に霊璽は持ってこないのかよ、という話である。 神式の葬式が珍しくて職員が忘れたのか、それともそもそも霊璽のことなんか気にしてないのか、私にはその辺は判らない。 よほど自分でとってこようかと思ったが、母の顔を眺めているうちにその気はなくなった。 どう考えても、母の魂は母の肉体に宿っているように思われたのである。 あんな高さ20センチ・縦横10センチほどの箱に入っているとは到底思えない。 霊璽なんかなくてもいいじゃん、と思った。 と同時に私は恐ろしいことに気がつくのである。 明日の15時には母は火葬されてしまうのだ。 まるで生きているかのような母の顔を見るにつけ、これを燃やしていいわけが無いじゃないか、という思いが沸き上がってきた。 以前TVで、死んだ妻に防腐剤を塗り込んで永久保存した男の話をやってたけど、それをふと思い出した。 その男の気持ちがよくわかった。 このまま保存しておきたいと私も思ったな。 一応兄に燃やさずに済ます手はないかと相談してはみたが、やはりそれは無理な話である。 言う前から判ってはいた。 どうにもならない。 ただ母を眺めながら、酒を飲むより他になかったのである。 控え室には風呂も付いている。 夜も更けて兄も寝たようだったので、私は風呂に入った。 いつも東京にいるときはシャワーばっかりだから、このときは風呂にお湯をためてやった。 葬儀屋には随分カネ払ってるし、少々無駄遣いしてやろうと思ったのである。 寝不足のせいか、酒が入っていたせいか、湯船につかった私は思わず叫んだ。 「こうやって風呂に入れるのもおっかさんのおかげだ。おっかさん、ありがとう!」 余りに大きな声だったので寝ていた兄が起きたほどである。 風呂から出て更にしばらく私は酒を飲んでいたが、程なくねてしまった。 3時ぐらいまでは記憶があったけど。 泊まり込んで私は三晩目を、兄は四晩目を迎えていた。 実際の話、疲れ果てていたのである。 どうも葬式というのは、残された家族を疲れ果てさせて、悲しみを忘れさせるために存在しているようにも思われた。 <火葬> 葬儀祭は13時からであったが、おときを食べに11時頃から親族が集まってくる。 葬儀場に立っていると親戚が寄ってきては、「一ヶ月一緒に住んでくれて、おかあさん喜んどんさった」だの「あんたさんがパソコンの使い方教えてくれるって自慢しとんさった」などと言って私を泣かした。 どう考えても私を泣かすことを目的としているようである。 かなわないので、私はおときを食べないで、控え室の裏に逃げ込んでいた。 この頃から私は胃に痛みを感じ始めた。 胃が痛くなってきたのは、飯を食わなかったからなのか、あるいは火葬のときが近づいていたからなのか・・・。 相変わらず葬儀はつまらない。 神式はお通夜と全く同じ事をまたやるだけのことである。 ただ、棺桶を花で埋めて葬儀場へ運ぶ事だけが違う。 これがホントに最後のお別れである。 我々は飾られた花をちぎっては棺桶に入れていった。 顔以外のあらゆるところが花で埋め尽くされると、棺桶はふたを閉じられた。 そして我々は母を火葬場へと送り出した。 我々もバスに乗ってあとを追う。 実際にはバスに乗る必要もないほど近いのだが。 火葬場に着くと、私の胃はますます痛くなっていた。 やばい、ホントに燃やされる! しかし、止めようもない。 私は火葬炉に運び込まれる母をただ見送るより他になかった。 焼き上がるまで1時間ほどだと聞かされていたので、とりあえず我々は葬儀場へ戻った。 この間特にすることもないので、私は御霊前の金額をチェックしてリストを作っていた。 もっとも、あっという間に終わってしまう。 そもそも来ている人が少ないのである。 時間をもてあました私は葬儀場の外へ出て火葬場をじっと眺めていた。 中にいると親戚が寄ってきて、また泣かされるのがかなわなかったのである。 寒かった。 予定通り、15時ぐらいに我々は火葬場へ再び案内された。 今度は徒歩である。 徒歩3分ぐらいの距離なのだ。 必要のないところに霊柩車やらバスやらを使って、その分料金を取られているのである。 我々が立ち並ぶ一室に、母の遺骸が大きな台車に乗せられて運ばれてくる。 燃え尽きてほとんど人間の面影は無かったが、なぜか大腿骨だけが2本完全な形のままに残されていた。 私は手術を終えて数日と経たないうちに歩いていた母を思い出した。 なるほど立派な大腿骨の持ち主だったんだろう。 変わり果てた母の姿を見て、私はこの母を中心に回っていた7ヶ月の終わりを感じていた。 骨に母の魂が宿っているとは私には思えなかったのである。 すべては終わった。 母の遺骨を骨壺に収めると、我々はまた歩いて葬儀場へ戻らなければならない。 今度は十日祭をやって、更に精進落としを食べるのである。 まったく葬式ってのは形式ばっかりでつまらないことだ。 決まった形式があるからこそ、人は安心できるわけだが。 火葬場から帰り道、丸々と太った猫が寝そべっているのに出くわした。 それも歩道の真ん中にどっしりと。 親戚一同が通っても全く逃げるそぶりを見せず、むしろ構って欲しそうな様子である。 やけに人懐っこかった。 それを見て、母ならきっと「たま」と勝手に名前を付けて構うだろう、と私は思った。 母は、犬をみれば「ポチ」と、猫をみれば「たま」と勝手に呼ぶ人であった。 <了> 読み終えたことを私に伝えたい方は右のリンクをクリックしてください。→読み終えた(後書きがあるので、読み終えるまでクリックしないでください) |