書き手の一方的な思い '99_09_15

書き手の一方的な思い '99_09_15



とあるニュースのミニ特集で、「自費出版ブーム」というのをやっていた。
老年の方が大半を占めるそうだが、近年自費出版を行う方が多いのだそうだ。
一年あたり3万冊にものぼるとか。
番組の中では、人生の終わりが近づくにつれて何かを残したいという思いに駆られるものらしい、というような結論に落ち着いていた。

番組を見ていて、私は以前見た別の特集を思いだしていた。
もう何年か前になるので、決して新鮮な話ではないのだが、そこには共通の何かがあるような気がする。

その番組では、ある純文学雑誌の販売数と新人賞への応募数についての奇妙な現象について取り上げられていた。
雑誌の販売数は顕著に減っているのに、新人賞への応募は年々確実に増えているのだ。
この事はいったい何を意味しているのだろうか?

私はこう思う。
「自分は何を表現したい。
 自分を知って欲しい。
 だが、他人には興味がない。」

新人賞への応募する人が増えているのは、自分の何かを表現する場を求めている人がそれだけ多いからだろう。
しかしながら、雑誌自体の売り上げが落ちているということは、他の人が書いた文章を読みたいとは思わない、ということに他ならない。

お金に不自由していない老年の方が、100万からのお金を支払って自費出版するということも、実は同じ所に根があるように感じた。
誰かに読ませるべきレベルにあるかどうかという評価を受けることには興味がなく、とにかく表現したい。
そして知人にだけでも読ませてみたいのではなかろうか?
また、自費出版した本の多くがその内容に関わらず、作者が思った以上には売れないのも、他人に無関心な世相を写しているという気がしてならない。

実は私は自分の書いている、この文章のことを考えていた。
私はとりあえず書きたいから書いているのだが、やはり誰かが読んでくれるのを期待して書いている。
だが、それは一方的な思いに過ぎず、読んでいただけるだけの内容が書いてあるわけではないであろう。
そして、私はあまり他の人が書く情報以外のページは読まない。
一人私だけでなく、インターネットにホームページを持つ多くの方がそうかもしれない。

しかしまた、例えそうであったとしても、それは大した問題ではないとも言えるだろう。
本にせよ、ホームページにせよ、いつも読む自由は常に読み手にあるからだ。
今日もまた私はこうして書いている。


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