私は最近ときどき胸が苦しくなることがある。 幸いにして病気だというわけではなく、この世界というものの儚さについて考えていると、激しい不安で胸が苦しくなるのだ。 このいま目に見えている世界は、当然にここにあるものだと思って私達は生活している。 いわゆる客観である。 しかし、本当はそうではない。 自分がこの世界を知覚しているから、この世界は存在しているのである。 つまり、客観は主観に包含されるのだ。 例えば自分が死んだとしよう。 その後に世界は残るだろうか? 確かに物も自分以外の人も残されているはずである。 ところが、実は何もないのだ。 なぜならば、それを知覚する自分が存在しないのだから。 死だけが全てを無にする。 私はいま突然誰かに頭を打ち抜かれて死んでしまったとしたら・・・、なんて考えてしまったりするのである。 手が震えて、胸が苦しくなる。 いずれ自分にも死が訪れるだろう。 その日を思うと、いま何かしらやっていることが無意味なのではないか?と思ったりして、何もかも投げ出したくなるのである。 神を想定しなければ、生きることも死ぬこともままならぬ、という気持ちも分からなくはない。 こんな事を考えるのはいまに始まったことではなく、就職浪人時代からのことである。 人間というのは暇があって初めて考えるものなのだろう。 もちろん私はこの件について、既に答えを用意してあった。 用意していなければ、私も生きてはいけない。 私の答えは、この世界は永遠なのだ、というものである。 自分が知覚してはじめてこの世界は存在する。 ということは自分が知覚している限り、この世界は永遠に続くということである。 私達は眠りに落ちる瞬間を知覚することが出来ないように、死を知覚することも出来ない。 つまりこの世界には終わりがないのだ。 訪れるはずのない終わりに怯えてどうする! 私はこの答えに満足している。 しかし、やはりこの胸をしめつけるような不安から逃れることは出来ない。 |