「私は○○です」 どれほど確かな「私は○○です」を持つことが出来るかが、人間にとって最も重要なんじゃないか。 なぜならば、それが自分を規定するからである。 そんなことをこの半年ほど考えていた。 この事を考えるきっかけになったは、ワールドカップの時の出来事だった。 「『日本対トルコ戦』を見るために研究会を一時中断しよう!」などと言い出すのがいて、大変ビックリした。 「社会人が何をバカなことを。粛々と予定通り行うべき」と私は反対したが、私以外は全員が賛成したのである。 どう考えても、この集団の中でサッカーが一番好きなのは私なのに。 だいたい私は研究会なんかどうだっていいわけで、当事者は君たちじゃないのか!と私は憤ったものである。 結局研究会は本当に中断され、みんなで『日本対トルコ戦』を見ることになった。(後半戦だけ) このとき私が考えてたのは「私は日本人です」ということである。 「ナショナリズム」というべきかもしれない。 それ以外に彼らの興奮を説明することは出来ないだろう。 私は以前書いた様な事情で平静を装っていたので、彼らの興奮がとても奇妙に感じられた。 「私は日本人です」というのは、生まれながらにして決まっていることだ。 自分ではどうすることも出来ない。 それが故にこれは確かなものである。 特別な事情がない限り、決して揺らがない。 そして、それは「自分が何者なのか?」という問いへの確かな答えの一つになる。 次に私が出会ったのは、漫画『風の谷のナウシカ』の中に登場する巨人兵オーマ。 彼はナウシカに名前を付けられて突然進化を始める。 自分が何者なのかを突然に知るのである。 それは「私はオーマです」ということだろう。 名前というのは、それまで生きてきた全てで自分を規定するものである。 (ただ、名前というものは名前の上に自分が堆積していくものなので、「名前が付く前に定められていることが名前によって導き出される」ということに理由付けが出来るかどうかは不明である。私には出来なかった。) 名前にまつわるエピソードは映画『千と千尋の神隠し』の中にも出てくる。 こちらの方がわかりやすい。 千尋は名前を奪われて自分を見失いそうになるのだ。 つまり名前というのは、「私は○○です」の総括みたいなものなのである。 例えば「私はHIVです」と言うと、その中には「私はゲーマーです」とか「私は美を探求する者です」とか「私は変わり者です」とか色々なものが含まれてくる。 それは自分が思う自分である。 人によっては色々なものが含まれてくるだろう。 「私は会社に必要とされる者です」とか「私は娘の父です」とか。 だからこそ名前というのはとても大切なのである。 ただ、「私は日本人です」以外の「私は○○です」は常に変動する。 この点に於いて「私は日本人です」は特殊なのだ。 例えば、私がゲームに挑まなくなればゲーマーではなくなるわけである。 もう少し例を書くと、子供が亡くなれば親ではなくなるし、技能を失えば会社で必要とされなくなるかもしれない。 そうすると自分を規定するものが失われる。 これは非常に恐いことだ。 不安で仕方がない。 だから人は「私は日本人です」という確かなものにすがろうとするんじゃないのか。 私は、「私は日本人です」という自己規定は危ういな、と思っている。 ワールドカップの熱狂なんかを見ていると、興奮するよりもむしろ恐怖を感じるのだ。 やはり「私は日本人です」よりも強固な「私は○○です」を持たなければならない。 そうしないと、私達は「私は日本人です」に飲み込まれてしまうかもしれないのである。 より確かな「私は○○です」をつくろう! それがこの半年考えて導き出した私の答えである。 <文字化け可能性あり> ○○=まるまる |