私は○○です

私は○○です 2002_12_23

 

「私は○○です」
どれほど確かな「私は○○です」を持つことが出来るかが、人間にとって最も重要なんじゃないか。
なぜならば、それが自分を規定するからである。
そんなことをこの半年ほど考えていた。


この事を考えるきっかけになったは、ワールドカップの時の出来事だった。
「『日本対トルコ戦』を見るために研究会を一時中断しよう!」などと言い出すのがいて、大変ビックリした。
「社会人が何をバカなことを。粛々と予定通り行うべき」と私は反対したが、私以外は全員が賛成したのである。
どう考えても、この集団の中でサッカーが一番好きなのは私なのに。
だいたい私は研究会なんかどうだっていいわけで、当事者は君たちじゃないのか!と私は憤ったものである。
結局研究会は本当に中断され、みんなで『日本対トルコ戦』を見ることになった。(後半戦だけ)

このとき私が考えてたのは「私は日本人です」ということである。
「ナショナリズム」というべきかもしれない。
それ以外に彼らの興奮を説明することは出来ないだろう。
私は以前書いた様な事情で平静を装っていたので、彼らの興奮がとても奇妙に感じられた。

「私は日本人です」というのは、生まれながらにして決まっていることだ。
自分ではどうすることも出来ない。
それが故にこれは確かなものである。
特別な事情がない限り、決して揺らがない。
そして、それは「自分が何者なのか?」という問いへの確かな答えの一つになる。

次に私が出会ったのは、漫画『風の谷のナウシカ』の中に登場する巨人兵オーマ。
彼はナウシカに名前を付けられて突然進化を始める。
自分が何者なのかを突然に知るのである。
それは「私はオーマです」ということだろう。
名前というのは、それまで生きてきた全てで自分を規定するものである。
(ただ、名前というものは名前の上に自分が堆積していくものなので、「名前が付く前に定められていることが名前によって導き出される」ということに理由付けが出来るかどうかは不明である。私には出来なかった。)

名前にまつわるエピソードは映画『千と千尋の神隠し』の中にも出てくる。
こちらの方がわかりやすい。
千尋は名前を奪われて自分を見失いそうになるのだ。

つまり名前というのは、「私は○○です」の総括みたいなものなのである。
例えば「私はHIVです」と言うと、その中には「私はゲーマーです」とか「私は美を探求する者です」とか「私は変わり者です」とか色々なものが含まれてくる。
それは自分が思う自分である。
人によっては色々なものが含まれてくるだろう。
「私は会社に必要とされる者です」とか「私は娘の父です」とか。
だからこそ名前というのはとても大切なのである。

ただ、「私は日本人です」以外の「私は○○です」は常に変動する。
この点に於いて「私は日本人です」は特殊なのだ。
例えば、私がゲームに挑まなくなればゲーマーではなくなるわけである。
もう少し例を書くと、子供が亡くなれば親ではなくなるし、技能を失えば会社で必要とされなくなるかもしれない。
そうすると自分を規定するものが失われる。
これは非常に恐いことだ。
不安で仕方がない。
だから人は「私は日本人です」という確かなものにすがろうとするんじゃないのか。


私は、「私は日本人です」という自己規定は危ういな、と思っている。
ワールドカップの熱狂なんかを見ていると、興奮するよりもむしろ恐怖を感じるのだ。
やはり「私は日本人です」よりも強固な「私は○○です」を持たなければならない。
そうしないと、私達は「私は日本人です」に飲み込まれてしまうかもしれないのである。

より確かな「私は○○です」をつくろう!
それがこの半年考えて導き出した私の答えである。




<文字化け可能性あり>
○○=まるまる


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