東京に出てきて、なにげにもう4年になる。 時の経つのは早いものだ。 先頃、東京について考えるところがあったので、少々書いておきたい気分だ。 正確に言うと、もう何ヶ月も前のことなのだが、銭湯に張ってあった「首都機能移転反対」のポスターを見て触発されていたりする。 ちなみにそのポスターには、石原知事がいかにもといった感じで、顔険しげに写っているのだが。 東京について考えるきっかけになったのは、堺屋太一氏の<「新都」建設>という本だった。 実というと、私はこの『堺屋太一』がどういう人間なのか全く知らず、経済企画庁長官に任命されたときには、どうせ人気取りに民間から抜擢しただけだろうと思っていた。(それは間違いではないだろうが) それ故、このおっさん(当時はそう思っていた)が胡散臭く思えて仕方なかったのだ。 この本は、私が読んだ彼の2冊目の本であり、これを読んで私は彼に対する見方を少しだけ修正することになった。 予想に反して、書生論的ではあるが、納得できる本だったのだ。 (書生論であると感じるのは、東京へ人が集まる理由を述べる時にはその集中力を強く論じ、移転する際にはその留まろうとする粘着力を小さく論じているところなど) 本の内容を少しだけ紹介するとすれば、東京から行政機能だけを地方へ移すべきだという趣旨で書かれている本である、と言えよう。 その利点と移転方法を、経済的な分析と歴史的見地に立った行政論で説明している。(ただし、この本は90年に書かれたもので現状を反映していない。 また現在進行している首都機能移転の論議は、堺屋氏の描いたものとは異なっているようだ) 私がこの本の中で一番着目したのは、なぜ人が東京を目指すのか、という部分である。 東京だけが全ての人を満たすことが出来る多様性を持っているからだと、この本では結論づけている。(深い言及は避けるが、地方は行政によって画一化されてしまっていて、東京だけが多様性を持っていると主張している) なるほど、と思った。 私は東京が好きだ。 というのは、私が欲するものがあり、面倒な近所づきあいを考える必要もなく、どんな格好をしていても目立つことがないからだ。 私にとって東京は最高の場所である。 ひとり私だけでなく、ありとあらゆる指向を持つ人を考えたとき、その全ての公約数になり得るのは東京しかないような気がする。 若者には渋谷・原宿があり、成人には新宿・五反田があり、年寄りには浅草がある。 コンサートは大抵東京を中心に行われ、芸術活動も東京がメッカだ。 つまり私は東京だけが全ての人を満たすことが出来る、という堺屋氏の意見に賛同する・・・つもりであった。 しかし、今は少し思い直している。 私は決して満たされることにない人間を知っている。 私の家族達だ。 彼らは東京では決して満たされることはない。 かといって、郷里にいれば満たされるかといえば、そうでもない。 どこへ行っても満たされることはなく、ただひたすら生きている。 おそらくそういう人間は多いだろう。 もしそうだとすれば、そこから導き出される答えはネガティブなものだ。 地元で満たされることがないので、とりあえず何かありそうな東京へと人は向かう。 東京とは幸せに飢えた街なのかもしれない。 私はそんな街に生きている。(でも、部屋の中でゲームしてばかりいるから、あまり関係ない) <反省> ( )書きが多すぎ |