祖母の下へ

祖母の下へ 2001_06_08

 

私は今、実家へと向かう列車の中にいる。
実家へ帰るのは実に2年ぶりのことになる。
毎日時間が足りない足りない、と思うあまり、ついつい足が遠ざかっていた。

今回の帰郷は一本の電話から始まった。
それは祖母が亡くなったという知らせだったのだ。
今年の夏は越せそうにないという連絡を事前に受けており、今年は帰らないとなあ、と思っていたのだが、手遅れになってしまった。
その知らせを受けてから、すでに40時間が経過しようとしている。

私は祖母の死を知った時、不思議なほど悲しくならなかった。
はじめに思ったのは、いま引き受けている雑用を誰に頼もうか?ということだったのだ。
不謹慎きわまりないが、それが現実であった。
結局、トラブルを抱えた状態で誰かに引き継げるはずもなく、今頃になって実家へと向かう列車に乗っている始末だ。
幸いにしてお通夜が一日遅くなったので、体裁は何とかついた格好なのだが。

私はよく言ったものである。
「このくそばばあ!、はよ死ねえぇぇ!!」
もちろん祖母が元気だった頃の話で、すっかり弱ってしまってからは言えなくなってしまった。
本当に死にそうだと、死ねとは言えないものだ。
私は生前既に小さくなっていた祖母を思い浮かべながら、何とも酷い孫だったなあと改めて思うのだった。



お通夜を抜けて 2001_06_09


私は知らなかったのだが、お通夜というのは一晩中誰かが遺体の側についていてやるものなのだそうだ。
とっつぁんと兄はお泊まりすることになったが、私はお通夜を抜けさせてもらうことにした。
次男の特権である。

今日一日でわかったこと。(既に日付は変わっているが)
それは、人が死んでも同居している家族には悲しんでいる暇などない、ということだった。
人付き合いなどほとんどない祖母だったが、いろんな人間がやってきては、ああだ、こうだ、と口やかましく急き立てる。
中には亡くなった直後にやってきて、遺体の布団をはぎ取り、死後硬直が始まる前に指をこう組ませないとダメだ!と呆然とする遺族を前に実践した者もいたそうだ。
おまけに腕に数珠を巻き付け始めたりして、「あの・・・、うち、神道なんですけど・・・」などと止める一幕もあったとか。
まるでコントみたいだ。

私はお通夜の会場に着いたとき、あんまりみんな悲しそうじゃないなあ、と思ったのだが、どうやら悲しむ暇もなかったというのが実状だったようである。
会場でも皆が忙しく立ち振る舞い、私もそれにつられるように、何か働かなければと思った。
本末転倒だ。
形式なんかどうでもいいのに・・・。

私は祭主の味気ない祝詞(のりと)を聞きながら思った。
誰もいない世界に行きたい。
本当に一人だけの世界に・・・。

この世界にいる限り、永久にわからないのだ。
いま私が悲しくないことが、本当に悲しくないのかどうかすら。



リボンちゃん 2001_06_10


もうこんな馬鹿げたことにつき合ってはいられない。
私は式に参列しながらも、一人別の世界にいた。

この日の私にわかったことは以下のことだけである。
郷里の夕暮れにはコウモリが飛び交うこと、祖母の遺体はとても冷たかったということ、そして、ハム太郎には仲間がいっぱいいるということ。

私は姪にプレゼントを買ってやるために、ハム太郎の仲間の名前を勉強しなければならないだろう。


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