神よ、人を救いたまえ
前書き

私は世間でいう「同時多発テロ」について書くことを控えてきました。
今それを書くことは卑怯なのではないか?という気がして仕方なかったからです。
しかし、明日にも報復攻撃が始まるかもしれない状況に、やはりいま書かなくてはならない、という気持ちになっています。

これから書くことを皆さんが読むことはあまりお勧めできません。
私は、これを読む人を不安がらせたり、自分の意見に引きずっていくことを望んではいないのです。
自分のご意見をお持ちになってから読まれることを祈っています。
これから私が書こうとしているのは、「人」つまり私と「神」についてなのです。






神よ、人を救いたまえ 2001_09_20

 

飛行機がビルに激突していた。
ヘッドホンで音楽を聴きながらインターネットしつつテレビを見ていた私は、何がなんだかさっぱりわからなかった。
テロップをみていると、どうもイスラム原理主義系のテロだという。
私はその時、ビルに勤めていた人達よりも、飛行機の一般乗客よりも、自爆したテロリスト達を哀れに思った。
突入する直前まで何を考えていたのだろうか?
この時点では事情がわからなかったので被害者のことよりも、確実にいたであろう飛行機のパイロットの方に注意が向かったのである。

なぜ自ら命を絶たねばならないのか?
神は人を救うために生まれた。
その神がなぜ人を死に追いやらねばならないのか?
そんな馬鹿なことがあるか!

私はここ一月ほど、「自分がいつか死ぬ存在なのだ」ということが頭から離れず、毎日怯えて暮らしていた。
「あと一ヶ月の命です」とか「脳底癌で手術出来ません。明日死ぬかもしれないし、1年ぐらいは生きられるかもしれません」とか医師に宣告されたときのことをシミュレーションして、「ぐわっ!!」とかショックを受けたりしていた。
寝付きが悪いし、睡眠時間が短いから体調は悪いし、勉強も進まない。
ドツボに填ったというべきであった。
そんな私は考えざる得なかったのだ。

自分という存在は肉体によって成立している。
もっと具体的にいえば、自分という存在は脳の作用である。
それは電気的であったり、化学的であったりするのだろう。
私達が非常に複雑であるということを除けば、要するにコンピューターと同じである。
脳の血管が一本切れれば、この自分は突然「終了」するのだ。

しかし、私達は自分をそんな風には捉えていない。
この自分を抽象的な存在として捉えているはずである。
肉体と精神は別個のもの、あるいは分離できるものだと感じて生きている。

そういった相反する二つの事実を前にして、如何にして生きていったらいいのか?
これは大変難しい。
考えるだけで空恐ろしい。
逃げ出したくなる。
私は「神が本当に存在したら、どんなにか素晴らしいことだろう!」と思った。

そして、だから神は生まれたのだという考えに私は確信を持った。
人は自らを生かしめるために神を創ったのだ。
だって神を持たないということは、こんなにも辛いことなのである。
私はいま痛感している。

であるからには、やはり神が人を死に追いやるなどということは、あってはならないはずだ。
そんなのはルール違反である。

私達は強制しなければならないのだ。
神よ、人を救いたまえ!と。
たとえ我々がアラーを信ずる者であろうと、キリストを信ずる者であろうと、その他の神を信ずる者であろうと。

そも汝はそのために生まれた。


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