ある日のこと、事務系のお姉ちゃんが遊びに来た。 良くある風景である。 以下、そこで交わされた会話。 登場人物はA氏、H嬢、C氏(相づち打ってるだけ)と私。 H嬢:私今度、メール講習の先生やるんですよ。 係長に突然言われちゃって、困ってるんですぅ。 Mさん(事務のおばちゃん)パソコン全然使えないからって。 私:メール? あんなもの誰でもすぐ使えるようになるよ。 A氏:いや、そんなことはないよ。 どのボタン押したら、漢字変換になるとか、初めてだったらわからないって。 いいじゃん、簡単なことから教えてあげれば? C氏:そうそう。 ここでは、メールだって初めての人にはわからない、という結論に落ち着いており、私はいわば負け組に属してる。 しかしながら、私とA氏の間には、つい先日、同じような結論にたどり着きながら、役割を逆にした会話が存在していたのである。 私:実家にPC買ってあげたんだけどね、これが使えないんだ。 母親は何とかメールぐらいはいけるんだけど、親父はダメだね。 どうにもなりませんわ。 A氏:メールぐらい、誰でも出来るでしょ。 そりゃ、プログラム組めといったら無理だろうけど。 私:いや、もうあれはもうダメだよ。 こうなんというか、マウスをこう動かしたらポインタがこう動くっていうことすら、感覚的に理解できないんだからね。(ちょっと言い過ぎ) このときの私は、メールだって使えない人は使えない、という立場に立っていたのである。 にもかかわらず、前出の会話の中でなぜ私は「誰でも使える」というサイドに立ってしまったのか? 悔しかったので、何となく気になっていた。 そしてちょっと思いついた。 ひょっとすると、会話におけるある種の「型」にはまっているからではないか?という事である。 つまり、「ある命題」→「反駁」→「反駁に対する反駁」という。 (メールできない→出来るでしょ?→いや、出来ない) A氏との会話の中で、二人しかいなかったので必然的にA氏は反駁に回ってしまったに違いない。 では、4人の場合はどうか? 私が2番目に発言しなければならない理由を考えてみたところ、何もなかった。 強いていえば、私はH嬢とさほど親しくなく、A氏とC氏はH嬢と比較的良好な関係を築いていた、という点くらいである。 考えようによっては、他の二人が反駁したくなかったので、私が反駁しなければならなかったといえなくはない。 こう考えていくと、何となく見えてくるものがある。 結局の所、人が集まると会話しなければならない。 しないとギスギスしているような気がしてしまう。 そういう雰囲気を回避するために「型」が生まれて、そこに参加する人はどれかの役割を担わねばならない仕組みになっているようである。 う〜ん、世知辛いねえ。 こんな事を考えていると、山にこもりたくなるよ。 |