孔子の論語にこんな一文がある。 「七十而從心所欲、不踰矩」 読み下すと、「七十にして心の欲するところに従えど、その則を越えず」といった具合になるだろうか。(正確じゃないかもしれない) 孔子が自分の一生を顧みて、70歳にもなると心の欲するままに振る舞っても、人の道に外れるようなことはなくなった、と述懐したものだ。(これもいい加減なので、あんまり信用して貰っても困る) 私はこの言葉を学校の授業で習った。 ところが、私達はこの言葉を実践している人物を知っている。 彼は70どころか30そこそこでこの域に達することを強制されているのだ。 その人物の名はキムタクこと「木村拓哉」。 我が未来のライバルになるはずの男である。 ここ数週間、私はしばしば『ハウルの動く城』のCMでキムタクを見た。 DVDを売るために、キムタクが映画の一場面を嬉しそうに話すのである。 まあ、声をあてているのだから、不自然ではない。 だが、ちょっとひっかかるんだ。 あれはどういう事かというと、宮崎アニメみたいな、悪い言い方をすると女子供向けの作品をキムタクのようなカッコイイ大人が認めているんだ、とアピールしているのだと思う。 逆にいうと、そういうのを素直に認められるからキムタクは偉いね、という具合にもなるだろう。 で、キムタクはそういう選択をするように強制されているんだな、と私は思ったのである。 どうも私たちの間には、キムタクは何でも心の欲するままに動いていて、且つそれを「カッコイイね」と感じることにしておこう、という約束事があるんじゃないか。 例えば、工藤静香と結婚すると、キムタクぐらいになれば選り取り見取りなのに、ピチピチの若い娘じゃなく敢えて工藤静香を選んだってところがキムタクはスゴイよね、と私たちは思わなきゃならないのである。 しかし、幾らキムタクとはいえ、道に外れることをすれば私たちだって「カッコイイ」と思うわけにはいかない。 パンクロッカーだったら、大麻吸ってそれが「カッコイイ」と言い張る余地があるかもしれないが、キムタクはそういうわけにはいかないのである。 だから、キムタクは常に自分の欲するままに動き、発言しているのに、それでいてカッコイイ、と思われることしかできないんじゃないか。 無理してる感は絶対に出せないんだな。 彼は30そこそこで孔子が70にして到達した域に生きることを求められている。 自分の心の欲するままに生きているフリをしなければならないって、きっと辛いんじゃないか。 私はキムタクが嬉しそうに『ハウルの動く城』を語り始めると、なんだか酷く可哀想に思うのである。 断っておくけど、「未来のライバル」って部分へのつっこみは要らない。 |