私は記念写真が嫌いである。 ましてや「記念写真を撮る」などは恥ずべき行為であり、「撮りたい」と思った瞬間に人間は詰んでいるとさえ思っている。 なぜ今あるべき姿を中断させてまで、人を無理矢理並べさせて写真を撮ろうとするのだろう? 私には理解できない。 さすがにいい歳になると記念写真を拒絶するわけにもいかないシーンがでてくるのだが、出来ることなら映ることさえ避けたい。 写真を撮ろうとする人を見たくないから。 私がここまで記念写真が嫌いなのには何かわけがありそうなものだが、今はそのことは置いておこう。 とにかく記念写真を撮るという行為は醜悪以外の何物でもないのだ。 ところがである。 そんな私にも記念写真を撮らなければならない事態が訪れた。 修論発表を終えた学生達と先生を時計台の前で撮影する羽目になったのだ。 デジカメだったのは不幸中の幸いだった。(不思議なもので、デジカメだと多少嫌悪感が薄らぐのだ) 私は毎年修論発表を終えた学生達にシャンパン(の代わりのスパークリングワイン、780円)をプレゼントすることにしている。 時計台の前でワーッと振りまかせてあげるのだ。 ただ記念写真を撮るのは気が重かったので、振りまいている所を撮ることにした。 しかしながら、不慣れなせいで一斉に栓を飛ばすことが出来なかった。 写真を撮る前に暴発してしまったのだ。 どうにも締まらない。 しょうがないので、その流れのまま適当に撮影を済ませた。 それから一月も経っただろうか。 私はそのデジカメに触りたくなかったのだが、学生達が卒業してしまうので、不承不承データを取りだした。 写真は思いの外よく撮れていた。 しかしよくよく見てみて驚いたことには、そこには美が溢れていたのである。 修論発表を終えた安堵感が、シャンパンの暴発という不慮の事態によって現れたのだろう。 感情の発露と言っていい。 そこにだけ美はあった。 それが証拠に、シャンパンの暴発という事態にあっても動ぜず、カメラの方を向いている人の顔に美は感じられないのだ。 私はこんな美しい写真ならばまた撮ってもいいと思った。 もっともそれは、記念写真を撮っていた私が醜悪でなかったことを示すものではないのだが・・・。 |