私は最近とても困っている。 テレビなんかで反戦活動をしている人達を見ても全く同意できないし、「人間の盾」となって戦地に赴く人達を見ても全く尊敬できないのだ。 人の感情としてはあまりよろしくないかもしれない。 どうして私が彼らに同意と尊敬を与えられないのかというと、 「戦争反対! 日本の政府は米国を支持するな!」 と私には言えないからである。 美しさの観点からいうと、これは言えない。 私達は米国の創った「富を生むシステム」の下で生きている。 これを説明するためには、このシステムを線路に置き換えて話をするとわかりやすいと思うのだが、話が長くなるので今回はやめておく。(このシステムはいつか破綻するはずなのだが) このシステムは富を生むと共に、もう一つの効果をもたらしている。 それは私達が当たり前に生きているということである。 人が自然状態で当たり前に生きられると思ったら大間違い。 力の均衡がとれなかったら人は必ず争う。 システムを安定させるべく、力の均衡を保っているから、私達は当たり前に生きられるのである。 これは安定してこそ実在しない架空の富が生まれるというシステムがもたらす副作用なのだ。 私達はただ生きているだけでこのシステムの恩恵を被っているし、世界中の多くの人もまたこの恩恵を被っている。 だが、システムを安定させるために必要なら戦争は起こる。 要するに今起きている戦争は「富を生むシステム」を維持・拡大しようとする試みなのだろう。 一時的に混乱は起こっても、フセインを取り除いた方がシステムが安定するし、規模も大きくなるという判断である。 米国にしてみれば、「君たちだってこのシステムの恩恵を被るんだから、当然支持してくれるよね」という話である。(何故あそこまで急いでやる必要があるのかは判らないのだが) 確かに戦争はイヤだ。 もし自分が戦争に行くことになったら、私は逃げる。 しかし、米国の要請を拒否した場合どうなるのか? 私が考えるのは、国のことではなくて、自分のことである。 「富を生むシステム」の下で生きている人間がそれを拒否するということは、「富を生むシステム」の下で生きる事をも拒否しなければならないのではないか? そうしなければ美しさを保つことが出来ないのではないだろうか。 過去には実際に「富を生むシステム」の下で生きることを拒否した人達がいたわけである。 例えば、中東に渡った日本赤軍なんかは、そういう人達だろう。(詳しくは知らないけど) 自分の思想に忠実たらんとすると、日本でのうのうと生きているわけにはいかないのだ。 美しさの観点でいくと、そういう選択をするのも無理からぬことである。 しかし、とても私にはそんな選択は出来ない。 出来るはずがない。 そう思うと私は反戦運動をしている人を見ても、全く同意できないわけである。 彼らもまたこのシステムの下で生きているのだから。 私はこのところ考えていた。 この戦争に反対し、かつ美しさを保ちながら、それでいてこのシステムの下で生き続けられる魔法のようなロジックはないものかと。 これが見つかるまでは、メディアが報道する、ある意味煽っているようにも見える反戦運動を苦々しい思いで見つめるほかない。 |