愛は自腹で

愛は自腹で  2001_11_18

 

どうしても私は許すことが出来ないのである。
自腹を切らないで、どうして「愛」を得ることが出来ようか!?

そもそも、「愛」とはいったい何なのか?
私はこう思う。
理不尽で理解できぬ心理・行動を説明するために生まれたのが「愛」である、と。

だって、もはや我々人間は遺伝子の運び屋ではないのだ。
子供をつくらねばならない理由など存在しないのである。
だが、それでも異性を好きなったりとか、好きな人とセックスしたいと思ったりするわけで、それには理由が必要になるだろう。
それが「愛」というものの始まりなのではないか。
さらにそれは拡張されて、様々なものに「愛」は使われている。
理不尽なものを一言で説明できる大変便利な言葉である、と言えるだろう。

その一方で、「愛」は対価を要求する。
例えば私がゲームを愛すれば、年間1〜2千時間を失うことになるのだ。
先日計算してみて驚いたのだが、1年は8760時間しかない。
ちなみに80年生きると、生涯は70万時間である。
私は既に3万時間失っている!
まあ、こんな特殊な例は置いておくとしても、誰かと一緒に暮らせば一人の時間は短くなるし、車を愛せばやはりお金を失わねばならない。
愛とは何かを失うものなのである。

ここで、ようやく冒頭に復帰するのだが、私が書いた「愛」とは「マック愛」の事である。
そう、マッキントッシュ。
同じ仕事をするのに敢えてコスト高なマックを使う、ということ。
それは愛を成立させる要件の一つではある。
だが、予算が余ったからといって、必要もないのに新しいPowerBookを買って、それで「愛」と言えるか?
そのPowerBookを買うことに、自分は「マック愛」を感じていないか?

私は予算を年度内に使い切ってしまわなければならない制度に納得してないが、まあ、余った予算でマックを買うところまでは許容したとしよう。
しかし、それは「愛」ではない。
だって、何も失っていないじゃないか!
そんなものを認めるわけにはいかないのである。

マックに愛を示すならば、必ず自腹で。
何かを失わずして愛を得ることなど出来るはずもないのだ。


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