引け目から導き出されるライトノベルの定義

引け目から導かれるライトノベルの定義 2010_05_29

 

このところ暇だったので、いわゆるライトノベルというやつを読んでいた。
「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズと「化物語」シリーズ、計14冊。
たぶんライトノベルと呼ばれるモノを読んだのは初めてじゃないかな。
ブームになるようなヤツは読めば大概面白いだろうと思って読んだら、やはりそれなりに面白かった。
普段本を全く読まない私でもスラッと読める。
どっちも続けば続くほど蛇足感は強くなっていくけど。
人気が出ると書きたくなくても書かなきゃならないんだろう。

それはともかく、「ライトノベル」という言葉を使う以上は定義を調べなきゃと思ったのだが、Wikipediaなんかを見る限り、どうもはっきりとした定義は無いようである。
既にずいぶんと議論はされたそうだ。
しかし、あまりにも色んな作品がライトノベルの範疇に入ってしまっていて、共通項を括り出すことは難しいようである。
強いていえば、「読む人がライトノベルだと思ったものがライトノベル」という主観的な定義を持ち出すしかないらしい。
もちろんたった2作品読んだだけの私にライトノベルを語ることなど出来るはずもないのだが、考えてみたら「読む人がライトノベルだと思ったものがライトノベルだ」という主張はなかなかイイ線を行っているなと思うようになった。
それはこんな事情からである。

実家に帰ってきたら、ヤケに兄貴が電話をかけてくる。
私は電話が大嫌い。
誰とも話したくないから私は家電には出ないのだが、携帯にかかってくる分には相手がわかっちゃうからやむを得ず出る。
さすがに兄貴を無視しては後から何を言われるかわからない。

電話に出ると、時々「最近何してんの?」って聞かれるときがあるんだよな。
突然「何してんの?」って聞かれると答えに窮する。
仕方がないので、前もってシミュレーションしてみようかと思った。

例えば、本読んでたよ、と答えるとしよう。
すると、「なに読んでんの?」と返ってくるかもしれない。
そこで「涼宮ハルヒ」なり「化物語」なりって答えるのは難しいんじゃないか。
向こうが知らなかったら説明しなきゃならないし、後から検索されて、「本っておまえ、ライトノベルかよ」って思われるかもしれない。
だったら最初に、本といってもライトノベルだけどね、自分から言っておいた方がむしろ恥ずかしくないんじゃないか。
ライトノベルだと知っていて読んでいるのと、まっとうな本だと思って読んでいるのとでは心情的に大きく違う。

ここをもうちょっと考えよう。
なんで恥ずかしいのか、という話である。

私たちは本にかなり良いイメージを持ってる。
本は人生の糧、みたいなイメージあるでしょ。
娯楽の中ではテレビやら漫画やらに比べると、高尚な部類に入るんだよ。
これはテレビゲーム的な感覚でも説明できる。
基本的に、負荷が大きくて自分の寄与度が高い行為に対して、我々は高い評価を与える。
文章を読むということは自分のデコード表を使って情報を処理し、物語であれば自分でそれを組み上げていくことなので、負荷も大きく自分の寄与度も高いと言えよう。

ところが、ライトノベルと呼ばれるものは、単に「本」とか「小説」と呼ぶにはちょっと恥ずかしい。
荒唐無稽な内容だったり、いわゆる萌え要素が満載だったり、ただ面白いだけで中身はなんにもなかったりするじゃん。
ライトノベルの特徴に挿絵が多いってのもあるけど、挿絵が多いって事は自分の寄与度が低い、とも言えるしな。
おそらく「ライト」ってところに自虐的な響きがあるんでしょ。
「本」と言っておいて、後からライトノベルだとわかったときのギャップがイヤだから、最初からライトノベルだと言っておきたい。
だからライトノベルという言葉が必要だったのではないか。
ないと個別にどう恥ずかしいのか説明しないといけないからな。
ライトノベルだと認識した上で、「ライトノベルといってもまんざらバカにしたもんでもないよ。なかなか面白い。興味深い話もある。いや、むしろ素晴らしい。そもそもライトノベルなんて括りは必要ないんだ!」と主張することは別に構わないだろう。
むしろ気持ちいいぐらいのはずである。

もし仮に、「本」とか「小説」と呼ぶことに対する引け目が「ライトノベル」という言葉を作らせたのであれば、ライトノベルという言葉を使うことは即ちその本に何かしらの引け目があるんだろう。
その引け目を感じているのは誰か、というと、その言葉を使う人本人である。
つまり、「読む人がライトノベルだと思ったものがライトノベルだ」という事になるのではないか。
要するに、本といってもそんな大それたものを読んでいるわけではない、ということが伝わればいいのである。

「化物語」の後書きを読むと、くどいほど「趣味で書いた」と作者は主張している。
ひょっとすると、書いた人もどこかに引け目があるのかもね。
そういう意味では「読む人が」という限定は要らないかもしれない。
結局、その本を認識する人が決めることだ、という話になるだろう。



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